読むお坊さんのお話

無量寿のはたらき-仏さまに包まれて精いっぱい歩んでいく-

佐々木 隆晃(ささき・たかあき)

相愛大学准教授

 年齢を重ねるごとに、時間が過ぎるのが早く感じられます。ある先輩から、年齢時速という言葉を教えてもらいました。私は現在52歳ですので、時速52キロのスピードで時間が進んでいるというのです。自動車で走っているようなものでしょうか。
 私には12歳の娘がいるので、彼女は時速12キロ、自転車と同じくらいです。のんびり自転車で走っていると、人に会って立ち話をしたり、道端に咲いている花を眺めたり、いろいろと寄り道をすることもあるでしょう。
 一方、自動車で走っていると、脇見をするわけにいきません。簡単に止まることはできず、止まれる場所まで行って止まろうと考えていたら、結局止まることなく過ぎてしまう。そんなことも多く、気がつくと時間が過ぎるのは早いものです。年齢や立場が違えば見える景色が異なり、時間の流れも生きるスピードも違って当然なのですね。
 1日24時間、時間はいつでも誰にでも平等だと考えられますが、同じように流れているとはどうしても思えません。楽しい時間は短く、つらく悲しい時間はなかなか先が見えません。悩んでいないで人生を楽しく過ごせばいい、見方を変えればどうにでも見えてくる、そんな言い方もできるかもしれませんが、気の持ちようでどうにかなるのなら、それはそのくらいのことだったのでしょう。涙がとまらないときも、現実を受けとめきれずに立ち尽くすこともあります。
 仏教では時間について、このような捉え方をします。時とよばれる何ものかが万象の外に実在するのではない。時なるものは万象の生滅変化する過程に仮に立てたものであると。時というのは、さまざまなものが変化していく様子を仮に名づけたものであって、私と別のところで機械が刻んでいくように私とかかわりなく流れているのではない、というのです。
 私自身が刻一刻と変化していて、変化そのものが時間の流れなのですから、いつまでも若くあるはずもなければ、健やかであり続けられるものでもありません。若いままでいるばかりがいいのではなく、年を重ねることによって見えてくるものがあります。健やかさを失うのは寂しいけれど、失ってはじめてその意味に気づくとともに、まわりの人の支えの大きさを知る。時間の流れは変化であるとともに、私が歩む人生そのものなのです。
 過ぎ去る時間の流れの中でもがきながら自分を見つめるのは難しいですが、量り無き寿をもって、ともに歩んでくださる仏さまがいらっしゃいます。
 たとえば樹齢千年の木から私たちの生活を見たら、何と慌ただしい毎日に映るでしょうか。刻一刻と移り変わる毎日の中で、ああしたい、こうであればいいのにと、自分の都合に振り回される私。
 そんな私を、大きないのちでどっしりと構えてご覧になって、喜びの光も悲しみの涙もすべて私をかたちづくる栄養素として受けいれることを教えてくださるような、そんな大きないのちで包み込むはたらきを、仏さまの「無量寿」という言葉に感じることができるように思います。
 今年の春、私は妻の十三回忌の法事をつとめさせていただきます。この12年間は、あっという間に過ぎたというわけではなく、ずいぶん長かったという感覚でもありません。12年先のことなどとても考えられない中で、妻に話しかけない日は1日もありませんでした。
 だからと言って、悲しみに暮れてばかりいたわけではありません。そのような暇がなかったというのもありますが、仏さまとなった妻に話す事柄は、喜びも悲しみも驚きも安らぎもあった毎日の歩みでした。申し訳ない話ですが、これまで他の方の13回忌のご法事には何度もお参りしましたが、このような感覚だとは思いもしませんでした。12年もたてば時間が解決する、悲しみも記憶も薄らいでいく、そのように考えていたのが正直なところです。
 悲しみを忘れるのではなく、悩みが消えてなくなるのでもなく、すべてをあわせてともに歩んでくださる仏さまがいらっしゃいました。これからも喜び悲しみの尽きない毎日が続くでしょうが、無量寿という仏さまのはたらきの中だからこそ、精いっぱい歩むことができるように思います。

(本願寺新報 2023年01月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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