読むお坊さんのお話

救いのよろこび-先人を訪ね同じお念仏を申す-

橘 行信(たちばな ぎょうしん)

布教使・岐阜県本巣市・圓勝寺住職

 私には1歳3カ月の娘がいます。その娘には、私の母、連れ合いの両親の3人の祖父母、そして91歳になる曾祖母が1人います。私にとっては義祖母になります。

 まだ娘がお腹にいる時、その義祖母が「この子の顔を見るまでは死ねんなぁ」とつぶやきながら、孫娘のお腹をさすっていました。

 そして、娘が顔を見せてくれてからは「この子がハイハイするまでは」と言い、動き出すと今度は「歩きだすまでは」「呼んでくれるまでは」と、その都度、新たな目標を立てていました。そうして今、娘も義祖母を「ばーちゃん」と呼ぶまでに成長しました。

 ある日、娘が義祖母に「抱っこ、抱っこ」とせがみました。義祖母は申し訳なさそうに「ばーちゃんはよう抱っこできんわ。これが精いっぱい」と言って娘を抱き寄せました。

 続けて「力ある人に抱き上げてもらい」と、娘をお仏壇に誘い、手を取って重ね合わせ、「この子がお念仏申すまでは死ねんなぁ」とつぶやきました。

 物の無い時代から苦労を重ね、大病も患い、夫も、娘婿も、娘の子も先に亡くし、多くの悲しみを経験してきた義祖母です。世代も異なり経験もない私には、想像も及ばない深い歴史です。

 義祖母は言います。

 「あと何年生きられるかわからない。ただわかるのは、幼い頃よりこの身にしみついてくださったお念仏だけがたよりであること。ゆくあてがあるから死んでいけるし、生きてこられた。この子の成長を手に取れんのは惜しいけど、続きがあるから大丈夫」と。

 義祖母だけではありません。私も必ず死を迎えます。まだ先のことか、今日明日なのかもわかりません。わかっているのは、私がひとり、死んでゆかねばならぬということです。その時、死んだらどうなるのかと漠然とした不安を抱きつつ死ぬのでしょうか。

 「このままで死ねますか」

 強い問いかけが私のいのちに響きます。

 私は、生死流転ののち、人間の身に生まれ、仏縁に恵まれました。そして、ご本願を聞く法縁をいま与えられています。

 そのご本願とは、阿弥陀さまの「必ず救う」というお誓いです。救うとは「浄土に生まれさせて仏にする」こと。命終の私を二度と迷いの世界に流転させず、さとりの浄土に往生させ、成仏させる、という力強いお誓いです。私を背負ってお約束くださったご本願は、南無阿弥陀仏のお念仏として至り届き、いまも私を抱きかかえてくださっています。

 不確かな死後に恐れ続けていた私です。自分の生死の意味さえ知らなかった私です。だから苦しかった。だから怖かった。阿弥陀さまはその私に「救う、助ける」とたえずよびかけてくださり、生死を超える道をすでにご用意くださっていたのです。

 このまま空しく終わるはずだった私に、もう大丈夫と先手をうって必ず仏に成らせていただける道をお与えくださいました。その阿弥陀さまに揺り動かされて生きる私が、せめてできることは何でしょうか。

 義祖母が過ごした90年間の節目節目には、耐えがたい苦労や痛み、悲しみがありました。また、老いと死を傍らにして過ごす現在も「もう少し」という思いはぬぐえないでしょう。ですが、時に義祖母が漏らす「人間そう変われんわね」という言葉には、「だからお助けがあってよかった」という確かな安心がうかがえます。

 いつかこの世の縁が尽きた時、仏と成らせていただけるお救いをよろこぶ義祖母だからこそ、「もう少し」という時間をひ孫に向けることができ、自らがそうされたように、お念仏を娘になじませてくれているのだと思います。

 義祖母が娘の手を取りお念仏申す姿を見て、娘には3人の祖父母、1人の曾祖母だけではないと知らされました。浄土に往生した私の父も、祖父母も、義祖父もまた、同じお念仏を申して生き、いま仏として娘と共にあってくれているのです。

 いま義祖母がなじませてくれるお念仏も、娘にとって生死を超えた家族のまなざしとなり、今後も成長を見届けてくれます。先人を訪い同じお救いをよろこび、同じお念仏を申すことこそ、私にできることでしょう。

(本願寺新報 2023年02月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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