読むお坊さんのお話

「そのまま救う」-お彼岸はみ教えを聞く大切なご法縁-

花岡 静人(はなおか しずと)

布教使・奈良県吉野町・勝光寺

 「お彼岸の花」といえば、すぐに彼岸花を思い浮かべますが、これは秋のお彼岸に咲く花です。一方、春のお彼岸の花となると、すぐには思い浮かびません。

 ただ、私にとって、それは「沈丁花」です。中国名で「瑞香」といわれるように、沈香に似た独特の強い香りをはなちます。その香りに包まれると「あぁ春のお彼岸か」という気持ちになるのです。

 「ちょっと時期が違うのでは?」と思われるかもしれませんが、私が預かる奈良・吉野のお寺の沈丁花は、春のお彼岸の頃に花を咲かせるのです。だから、私にとって春のお彼岸を思い起こさせてくれるお花なのです。

 沈丁花は春のお彼岸だけでなく、別なことも思い起こしてくれます。それは小学校、中学校の「卒業式」。いずれも、沈丁花のお花の香りに包まれていました。峠を越えて2キロの道を通った小学校は、1学年たった1クラス。ですから6年間、同じ友達と過ごしました。大きな家族のようで、本当に楽しい日々でした。

 中学校は、近隣の6つの小学校の生徒が集まるので、いっきに7クラスになります。友達の輪がより広がって、やはり小学生の時と同じく、テスト期間以外は本当に楽しい日々でした。先生方にも恵まれました。この頃はあまり歌わなくなったそうですが、両方の卒業式で歌った「仰げば尊し わが師の恩」と素直に思えるような方々でした。

 両方の卒業式の時、実は同じことを思ったのです。それは「卒業したくない。このままずっとここにいたい」ということです。だけどそうはいかないのですから、なんとも切ない思いでした。正直、涙が出るほどに...。

 しかし、小学校の卒業式にはなかった思いが、中学校の時にはありました。ひとつはクラスのみんなと別れ別れになるつらさです。小学校の時は、みんな一緒に同じ中学に入学したので、そんなつらさはなかったのです。それに中学には、いろいろ面倒を見てくれた先輩もたくさんいて、また会えると考えると、少しわくわくしたほどです。

 もうひとつは、もっと深刻なことです。実は卒業式の次の日が高校入試の合格発表の日だったのです。卒業するのに合格か不合格かわかっていない、その心配と不安です。これも小学校の卒業式の時にはありません。地元の公立中学に入試などありません。つまり入学することがもう決まっていたので、そんな心配も不安もなかったのです。 

 さて、私たちの人生も卒業の時が必ずきます。「卒業したくない。もっとここにいたい」といくら願っても思っても追い出されてしまいます。小学校や中学校の卒業式は何度も予行演習をしましたが、人生の場合、たいていそれもできません。その上、小学校や中学校とは比較にならないほど長く慣れ親しんでいます。だから、別れの切なさや名残惜しさがつきることはありません。

 それでもよかった。ナモアミダブツ、お念仏と出遇わせていただいたからです。

 愚かで、切ない私を知ってくださったから、試験は言うに及ばず、私になにも求めず、命がけのご苦労をしてくださり「そのまま救う」と抱いてくださる如来さまに出遇わせていただいたからです。

 どう行けばいいのか、どこに行くのか、はたして行けるのか、そんな心配は必要なしです。抱いてくださる阿弥陀さまが、ご自身の彼岸、お浄土に必ずつれかえってくださるのですから。

 小学校の卒業式から中学校に行くまでは少し時間が空きますが、阿弥陀さまに抱かれていると「人生の卒業」がそのまま「お浄土への到着」です。そして、中学校に入学したら中学生となるように、阿弥陀さまのおさとりのお浄土に往かせていただいたその時には「おさとりの身」としていただきます。しかも、そのお浄土には親鸞聖人や蓮如さま、そしてお念仏に出遇われた懐かしい方々がいてくださるのです。なんともうれしいことです。

 仮に、懐かしい方が見つからなくとも大丈夫。阿弥陀さまのお浄土以外にいらっしゃっても「おさとりの身」となった私が、その方のもとに出会いに行けばいいのです。そんな私にしてくださる如来さまが南無阿弥陀仏です。

 お彼岸は浄土真宗の私たちにとって、お念仏の先輩、いのちの先輩が届けてくださった「南無阿弥陀仏のお救い」を聞かせていただく大切なご法縁です。ご一緒に、お念仏の香りに染めていただきましょう。

(本願寺新報 2023年03月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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