絶えることのないお育て-介護現場のただ中で仏さまに導かれて歩む-
成田 智信
布教使・横浜市戸塚区・善了寺住職

後悔だけではない
先日、お寺が運営しているデイサービス(通所介護)の職員会議がありました。その時に、10年来お勤めになっている職員さんから、こんな発表がありました。
「ここに勤めて、後悔だけではない死の受けとめがあることに気づきました」
とても心に響きました。
2005年4月に、私が住職を務める善了寺を運営母体としてデイサービスを立ち上げて、まもなく20周年を迎えようとしています。定員10人の小規模な、お寺まるごとのデイサービスです。
阿弥陀さまの恵みの中で、多くの皆さまとの出遇いに恵まれ、ここまで続けることができました。それこそ、ここに通ってくださったお一人お一人、お手伝いいただいたご門徒のお一人お一人、20年ともなりますと、お亡くなりになる方々も多くなります。発表してくださった職員さんは、前職の経験を踏まえて、お話ししてくださいました。
「生かすことだけを考えていると、死や老いは後悔しか生まないです。いずれ、衰えて亡くなるのは目に見えているのに、まだ出来たことがあったかもしれない、と人の死を後悔だけで受けとめていました」
その職員さんが10年間というお寺のデイサービスの中で、「後悔ばかりではない死の受けとめがある」と気づかされたのです。私は、報恩感謝の思いで心がいっぱいになりました。阿弥陀さまの尊いお育てのおかげとしか思えませんでした。
お育てをいただいたのは私自身も同じです。御同朋・御同行と手を合わされた親鸞さまのお姿が思い浮かびました。
親鸞聖人は『唯信鈔文意』に、「南無阿弥陀仏は如来の智慧のはたらきとしての名号であるから、この不可思議光仏の名号を疑いなく信じ心にたもつとき、観音菩薩と勢至菩薩は、必ず影がその姿に付き添うように離れないでいてくださるのである。この無礙光仏は、観音菩薩としてあらわれ、勢至菩薩として姿を示してくださる」(現代語版『唯信鈔文意』6㌻)とお示しくださいます。
親鸞聖人は、阿弥陀さまの智慧のはたらきである名号をいただいて、恩師・法然聖人のことを勢至菩薩がこの世に現れてくださったお方だといただかれ、聖徳太子を観音菩薩の化身とお受け取りになりました。
「私たちのちかい」
「阿弥陀さまにおまかせして生きる」この身の上には、今ここに、尊い出遇いが恵まれているのです。その功徳は広大です。すでにお浄土に往生されて仏となられた多くの方々も、お浄土から私たちのもとに還り来て、仏さまの智慧と慈悲を具体的に現す菩薩さまとしてお導きくださいます。すべて他力のはたらきの中に、煩悩具足の私たちが、絶えることのないお育てをいただきながら、むなしく終わらぬ、往生浄土の人生を送らせていただくのです。
毎朝、職員さんとデイサービスのお仏壇の前で、ご門主がおすすめくださった「私たちのちかい」4カ条を唱和させていただきます。最初のきっかけは、住職の私が紹介したことでした。でも、今回の職員さんの発表があった会議の後で、皆さんで話し合って、あらためて、みんなで唱えたいと言ってくれました。
本当にうれしく思いました。私は今ここにいるものだけではなく、阿弥陀さまのはたらきによってお浄土から還られた多くの方々にお導きをいただいているのだと味わいながら唱えていたからです。
「一、自分の殻に閉じこもることなく 穏やかな顔と優しい言葉を大切にします 微笑み語りかける仏さまのように」
一筋縄ではいかない介護現場の中で、さまざまな悩みを抱える私たちを決して一人にすることなく、今ここで、仏さまは微笑み語りかけてくださいます。「この道を行きなさい。私もともにいるよ」と。
お念仏を称え、お聞かせいただき、多くのお育てをこの身に味わいながら、みなさんとご一緒に4カ条のお言葉をいただいてまいりたいと思います。
絶えることのないお育ての中に報恩感謝の日暮らしが恵まれます。恵みに報いていくのは、暮らしの現場です。常にすべてがお聴聞のご縁だといただいてまいります。
今日も一日精いっぱい、報恩感謝の日暮らしを歩ませていただきたいと思います。
(本願寺新報 2023年06月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
※カット(え)の配置やふりがななど、WEBサイト用にレイアウトを変更しています。
※機種により表示が異なるおそれがある環境依存文字(一部の旧字や外字、特殊な記号)は、異体文字や類字または同意となる他の文字・記号で表記しております。
※本文、カット(え)の著作権は作者にあります。