読むお坊さんのお話

間違えなくてよかった-生まれる前から望まれていた出あい-

橘 行信(たちばな・ぎょうしん)

布教使・岐阜県本巣市・圓勝寺住職

よび声で目覚める

 私の名前は「行信」といいます。祖母が名付けてくれました。これしかない、と強く希望したそうです。でも、私自身は幼い頃から、その名前に対してさまざま感情を抱いてきました。現在では音読みの名前も一般的になっていますが、当時は珍しく、音の響きも子どもにはおかしく聞こえ、からかわれることもしばしばありました。


 その頃はいつも「なんでこんな変な名前なんだ」と憤りを感じていました。祖母が名付けたことを知ってからは、「もっと格好いい名前にしてくれればよかったのに」と責め立てることもありました。その都度、「間違えなさんなよ。決して間違ってはならんよ」と、祖母は私を諫めました。


 学校で自分の名前の由来について発表することがありました。その時、特に好きでもない名前なので家族に尋ねることもなく、適当に考えて、「自分の行く道を信じる」と作文しました。それ以来、出会う人に名前の意味を聞かれると、「我が道を行く」「他人からどう評価されても自分の信じたやり方を貫く」と答えていました。


 それが大きな間違いであると気づかされたのは、龍谷大学に入ってからでした。1年生の時、真宗学の講義で教授の口から何度も「行信」と私の名前が発せられたのです。ウトウトして聞いていた私は、揺さぶり起こされるようなよび声に目が覚め、講義に耳を傾けました。黒板にもテキストにも、私の名前がいくつも書かれているのです。「行信」とは浄土真宗の要だったのです。


 浄土真宗の依りどころとなる『大無量寿経』に説かれる阿弥陀さまのご本願とは、闇を闇とも知らず、迷いを迷いとも知らない私のためのものでした。この経説によると、はるか昔、錠光如来から始まり、五十三の仏さまが次々と世にお出ましになって多くの衆生を教化され、五十四番目に世自在王仏が出現されたとあります。その過去の尊い仏さまがたの救いからもれて、今なお迷い続けているのがこの私なのです。


 この救い難い極重悪人の私のために、続いてご出現くださったのが法蔵菩薩。無上の願をおこし私を救う道を成就するため、五劫思惟、兆載永劫のご修行を果たされ、南無阿弥陀仏の仏さまとなり、私が救われる名として仕上げてくださったのがお念仏です。


 すなわち、この経説は阿弥陀さまのご苦労の歴史が明らかにされると同時に、私の迷いの深さの歴史が示されているのです。


間違えるからこそ

 阿弥陀さまは、罪業深重の私に、ただ救いをお告げになります。それは南無阿弥陀仏の名号一つです。「われにまかせよ、必ず救う」との名号が私に至り届いてくださるのです。私はそれを受け入れるか否か。疑うか信じるかのみです。名号を聞いて疑いのない状態を信心といい、私に届いた南無阿弥陀仏そのままが口より現れでてくださるのがお念仏です。


 「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」  (註釈版聖典132㌻)


 親鸞聖人がお示しくださったこのお救いに、私は出あうことができました。自分の名前のおかげで、耳を傾けて仏さまのお話を聞くことができました。その時、祖母は90歳を超え、ほぼ寝たきりの状態でした。


 帰省した際、介護ベッドで横たわる祖母に、「ずっと間違えとったわ。いい名前をありがとう」と言うと、一瞬、意味がわかっていない表情を浮かべながらも、「行信、私らはよう間違えるわな。間違えるからこそ、間違いのないお助けがありがたいんよ。ここに間違いなくあってくださるから、お救いなんよ」と言ってくれました。


 子どもの頃、「間違ってはならんよ」と私に言った祖母の心は「ご法義を間違って受け取ってはならんよ」ということだったのでしょう。そして、「私らはよう間違えるわな」とは、どこまでいっても間違いだらけの凡夫の身だという味わいでしょう。九十数年という年月を過ごしてきて明らかになったのは、末通らぬわが身と、それにお付き合いくださるお慈悲だけだったと、祖母は私に伝えたかったのだと思います。


 祖母は私が生まれる前から名前を決めていたそうです。私が真実の行信と出あう縁となることを望んで。その名付けをいただいたかぎり、ご安心(信心)だけは間違えないようにいたします。


(本願寺新報 2023年06月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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