読むお坊さんのお話

電子マネーの違和感-願いが見失われてはいないか-

池信 秀見(いけのぶ・しゅうけん)

山口県長門市・極楽寺住職

中身は別物になる

電子マネーが普及して、現金を持ち歩かない人が増えているようです。確かに便利ですよね。支払いはスムーズだし、ポイントが貯まってお得だし、銀行に行く手間も省ける。よい事ばかりと思いきや、実はそうでもないような。特にお寺にはなじまないと思うのは、私が古い人間だから...というわけでもないのです。


 こんなエピソードがあります。ある保育所では、一つの問題を抱えていました。お迎えに来る親御さんの遅刻が増えてきたのです。お迎えまでの間、保育士さんが居残らねばなりません。困った保育所では、遅刻に対し「罰金」をとることにしました。ところが予想に反し、遅刻は増えたのです。なぜなら、「お金さえ払えば、遅れてもいいんだ」と「料金」のように受け止められ、それまで感じていた後ろめたさがなくなったからでした(マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』)。


「罰金」には、やめてほしいという願いが込められています。しかし、それを「料金」とする時、願いは見失われます。お金を払うという行為は同じでも、中身は別物になるのです。


 私が電子マネーを警戒する理由は、ここにあります。これまではむき出しにせず、慎みをもって包み、手渡すという文化がありました。そこには「ただ、お金を渡しているのではない。心を手渡しているのだ」という敬意と思いが込められていたのです。コスパ(費用対効果)やタイパ(時間対効果)という経済合理性から見れば、無駄に見える行為なのかもしれません。「ピッ」という電子音とともに、金額のみ行き交う関係が効率的。しかし、それだけでは見失うものがあるのです。相手を思うが故の、ひと手間。込められた温もりやメッセージ。人間の営みは、効率や合理性だけでは量れません。それらに気づく感性が、電子マネーの普及により、ますます衰えそうで怖いのです。特に私は、流されやすいので。


 そうなると、「御布施」も「料金」のように扱いかねません。「布施」とは本来、「施し」「喜捨」の意味で、仏教の重要な実践行為。自分の持ち物を他者に施すことで、執着から離れ、身心を整えるためのものです。その施しは、金品(財施)だけではありません。仏法の施し(法施)や安心感を与えること(無畏施)、笑顔(和顔施)などさまざまなものを施し施されることで、他者との関係が深まり、自らが育てられていく。それが「布施」という営みなのです。


その心を見失い、効率ばかりを重視すると、渡す側も受け取る側も、「料金」や「サービス」のように扱ってしまいます。いや、すでに扱っているのかもしれませんが。

かけがえのない存在

 仏教説話「貧者の一灯」は、「王さまが金にあかせて寄進した多くの灯火は消えてしまったが、老女が貧しい中にも心を込めて寄進した灯火は消えなかった」というお話です。


 金額の多寡よりも、真心が大切なのだというこの譬え、きれいごとと受け止められがちですが、とんでもない。なぜなら、金額だけで人を量るとは、「もっと高い金額がもらえるのなら、あなたでなくてもいい」ということ。つまりは他者を、そして自分を取り替え可能なモノとして扱うことであり、「あなたでなくてはならない」という「かけがえのなさ」を手放す行為だからです。ならば「貧者の一灯」は、人間のかけがえのなさを奪う行為に抗う、仏法からのメッセージだと言うと大袈裟でしょうか。


 お寺は、経済活動の中にありながら、経済合理性とは違う枠組みで成り立っています。この私を「かけがえのない存在」だと願われる阿弥陀如来のはたらきと出あい、共に願いをかけられている「かけがえのない存在」としての他者と出あう。そんな温もりある願いが行き交う場なのです。そして、世の流れに対峙し、抗う価値観を発信できる場でもあると、私は考えています。


 電子マネーが、すべていけないとは思いません。私も使っています。それに、貨幣経済が隅々にまで浸透し、さまざまなものが商品化されてしまった社会では、お金がどれほど重要かも身に染みています。しかし、時代に流され、金額や効率では量れないものに気づく感性を失うと、自分の人生も、そしてお寺の存在意義も見失ってしまうのではないか。そう警戒しながら、仏法に問い尋ねる日々を過ごしています。


(本願寺新報 2023年06月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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