読むお坊さんのお話

阿弥陀さまのほうき-お釈迦さまのお弟子・チューダパンタカの教え-

西河 唯(にしかわ・ゆい)

中央仏教学院講師・京都府南丹市・安楽寺衆徒

朝の掃き掃除

 私は、今年の春から京都の中央仏教学院に勤務しています。電車の関係で毎朝、少し早く学院に到着します。そこで始業までの時間、先輩の職員の方を見習って、急ぎの仕事がない時には、正門前の掃き掃除をすることにしています。


 そんな生活を始めて数カ月して、夏になりました。早朝から気温が上がり、またたく間に汗ばんできます。そうすると、だんだんと掃き掃除がおっくうになって、なぜ、こんなことをしているんだろうという思いが頭をよぎります。その時ふと、ある仏教説話を思い出しました。


 それは釈尊のお弟子・チューダパンタカの物語です。『阿弥陀経』にも、「周利槃陀伽」として、聴衆の一人にその名をつらねています。


 彼は日頃からたいへん物覚えが悪く、周囲からさげすまれていました。彼自身も、釈尊の授けてくださるみ教えを少しも覚えられないことに苦しんでいました。


 そこで釈尊は、「塵を払い、垢を除く」という短い言葉を繰り返し唱えながら掃除に励むよう勧めます。


 釈尊の言葉の通り、チューダパンタカは「塵を払い、垢を除く」「塵を払い、垢を除く」と繰り返しながら、ひたすら掃除に励みます。しかし、いくら掃除をしても、汚れは後から後から積もっていきます。そしてついに、「塵や垢とは、執着の心のことをいうのだ」「いくら掃除をしても汚れが積もり続けるように、人の心も執着から離れがたい」「本当に清らかにすべきなのは心であったのだ」と気づき、さとりを得たといわれます。


 しかし、自分自身はなかなかチューダパンタカのようにはいきません。たくさんの落ち葉を一度に掃き集めようとして大きな竹ぼうきを使うと、ちりとりの中へと落ち葉を掃き入れる時に苦労します。反対に小さな竹ぼうきを使うと、ちりとりに掃き入れるには便利ですが、たくさんの落ち葉を掃き集めるのには時間がかかります。


 では、2本のほうきを交互に使うのかというと、「そこまでするのは面倒だ」という心が起きます。そのうち「あの隅は掃きにくいな」「よく見るとまだあの角に落ち葉が残っているな」という、些細なことまで気になってくるのです。


おさめ取って捨てず

 このようなわけで、われわれの心は常に移ろい続けています。そのため、ほんの一時、「本当に清らかにすべきなのは心であったのだ」と思い浮かんだとしても、次の瞬間にはまた別のことが気になります。こうして迷い続けるわれわれですが、いかなる衆生も選び捨てることなく、いま現にわれわれを救い取ろうとされているのが阿弥陀さまです。


 親鸞聖人は『浄土和讃』で、阿弥陀さまのお名前にこめられたはたらきについて、
 十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる
     (註釈版聖典571㌻)
と讃嘆されています。


 阿弥陀さまは、あらゆる世界をご覧になって、お念仏をよろこぶ衆生をその光明の中に摂め取り、決して捨てられることはありません。


 阿弥陀さまが法蔵菩薩であられた時、一切衆生を救うというご本願をお建てになりました。そこには、もし一切衆生を残らずお浄土へ生まれさせて、仏のさとりをあたえることができなかったならば、私は決してさとりを開くまい、とお誓いくださっています。そして、永劫にも近い修行の果てに、法蔵菩薩は阿弥陀さまとなられたのです。


 そうしますと、ご本願は見事に成就したということになりますから、お誓いの通り、本願力は一切衆生をもらさぬようはたらいているということになります。


 それはさながら、いかなる落ち葉も取りこぼすことのない、万能のほうきのように思えます。どんなに狭いすみっこに隠れている落ち葉も、どんなに小さく細かくなってしまった落ち葉も、残らず掃き集めるのが阿弥陀さまの本願力です。


 親鸞聖人は、阿弥陀さまのお名前には、細大漏らさず一切衆生を救い取る摂取不捨のはたらきがこめられていると教えてくださっています。


 阿弥陀さまの摂取不捨のほうきに身をまかせながら、お念仏とともに掃き掃除の習慣を続けていきたいと思います。


(本願寺新報 2023年11月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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