大丈夫!-み教えを依りどころに確かな人生を歩む-
長岡 岳澄
中央仏教学院講師・兵庫県姫路市・金蓮寺住職

自信満々
小学3年生になる娘は自信満々です。
毎日毎日、学校から帰ってきたら靴下を脱ぐのですが、脱いだら脱ぎっぱなし。決して、洗濯カゴに入れるということがありません。
そのたびに、母である妻が注意するのですが、「私は天才だから」といって、言うことを聞いてくれません。「天才だから」と、靴下を洗濯カゴに入れないことの整合性がよくわからないのですが、とにかく自信満々に答えます。
このようなことは枚挙にいとまがなく、学校でのテストがあるから「勉強しなさい」と言っても「私は天才だから大丈夫」。結果、百点じゃなくて、「ほら、ちゃんと勉強しないと」と言っても「大丈夫」。
運動会前、リレーの選手に選ばれるように「走る練習をしておいたら」と言っても、「私は天才だから大丈夫」。
結果、選ばれなくても「大丈夫」。
なにごとにおいてもこのような状態で、親として、しつけの至らなさに恥じ入るところです。さらに言えば、いろいろと妻に任せっきりで、十分に育児に携われていないことにも恥じ入るところではあるのですが...。
このような娘ですので、「このままで大丈夫かな?」と心配になるのですが、一方で、「大丈夫だ」という安心感も抱いています。
というのも私は学生時代、研究の一環としてE・H・エリクソンという心理学者の本を読みあさっていた時期がありました。エリクソンは「アイデンティティ」という言葉、概念を生み出した学者です。
アイデンティティは、自我同一性とも自己同一性とも訳され、自分が思う自分と他者が思う自分が一致し、自分が自分であるという自信を確立するといった概念で、このアイデンティティ確立の重要性が提唱されています。
エリクソンは、アイデンティティの確立に併せて、人生を8つの段階に分け、それぞれの段階で課題を克服していく必要があるという漸成発達説というものを提唱しています。
この漸成発達説、アイデンティティの確立において、最初に課題として挙げられるのが、基本的信頼感の確立で、これは、親をはじめとした周りの人々からの育み、愛情を受けることによって、自分自身、世界全般に対する基本的な信頼感が形成されていくというものです。なんとなく自分は大丈夫だろうという感覚、いわゆる「根拠のない自信」のもとになっていく感覚だといえます。昨今の言葉で言えば、自己肯定感に通じるものだといえるでしょう。
小学3年生の娘は、いろいろとハチャメチャなところはありますが、この基本的信頼感はしっかりと獲得し、根拠のない自信を持ち、自己肯定感も高い状態にあると感じ、この子は、将来、なにか人生の壁に突き当たることがあっても、立ち向かっていけるだろうと思い、「大丈夫だ」と安心感を抱いているところなのです。
わが身を照らす光
昨今、社会、家庭環境の変化によって、なにごともひと昔前のようにはいかなくなってきています。昔は昔で問題はあったのでしょうが、親が子と接する時間は短くなり、十分に子を育むことが難しくなっているのではないかと感じられます。これにより、基本的信頼感の獲得が難しくなり、自己肯定感も低くなってしまっているのかもしれません。
しかしながら、私たち念仏者は、阿弥陀さまが常に私を照らしてくださっていることを知っています。
親鸞聖人は『高僧和讃』で、 煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり (註釈版聖典595㌻) と示してくださっています。
阿弥陀さまの大慈悲心による光明は、すべての人々を照らしてくださっています。そして、私たち念仏者は、そのお光を直接に見ることはできませんが、阿弥陀さまは見捨てることなく照らしてくださっていることを、親鸞聖人のお示しによって知ることができています。
人生、不安は尽きませんが、阿弥陀さまは常に私を照らしてくださっています。そのみ教えを依りどころとして、確かな人生を歩んでまいりましょう。
(本願寺新報 2023年11月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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