読むお坊さんのお話

のぞみはありませんが、ひかりはあります

江田 智昭(えだ・ともあき)

仏教伝道協会職員・北九州市八幡東区・徳養寺衆徒

お寺の掲示板大賞

 現在、私は「輝け! お寺の掲示板大賞」という企画を運営しています。2018年にこの企画を立ち上げて以来、全国の1万5千以上のお寺の掲示板の文言を読む機会がありました。よくメディアの方から「最も好きなお寺の掲示板の言葉は何ですか?」と質問され、毎回かなり困惑するのですが、最近では次の言葉を挙げています。


 のぞみはありませんが、
 ひかりはあります
     新幹線の駅員さん


 この言葉は心理学者の河合隼雄氏の言葉です。河合氏が新幹線の駅に行った際、駅員さんから「のぞみはもう走ってないですけど、ひかりだったら走ってます」と言われたそうです。おそらく、終電が近い時間だったのでしょう。


 その時、河合氏は「のぞみはありませんが、ひかりはあります」という言葉を思いつき、本の中で紹介するようになりました。ちなみに、河合氏がこの言葉を駅員に伝えると、駅員は「あっ、こだまが帰ってきた」とつぶやいたそうです。ジョークが大好きだった河合氏らしいエピソードです。


 「のぞみはありませんが、ひかりはあります」―この言葉を解釈すると、私たちが希望(のぞみ)を失っても、阿弥陀さまのお慈悲の光(ひかり)は私たちを照らしている、と受け取ることができます。私たちは無明とよばれる煩悩の闇を抱えているため、悩みや苦しみから離れられず、希望を失うことが人生の中でしばしば起こります。しかし、煩悩の闇を照らす阿弥陀さまのお慈悲の光はどんなときでも私を照らしているのです。


「光」を実感する

 話題は変わって、いまから約20年前のお話です。


 私は二十代の頃、福岡県の八幡の実家の寺で3年間法務をしていました。八幡の街には浄土真宗の熱心なご門徒さんも多く、日々の法務の中でご門徒さんからお育ていただくことが多々ありました。また、周りのお寺のご住職さんからもたくさん学ばせていただきました。


 非常に居心地の良い3年間でしたが、八幡を離れる日がやってきました。確か出発する前日だったと記憶していますが、近所のお寺の前住職さんが私のためにお餞別を持ってきてくださいました。


 「君が八幡からいなくなって寂しくなるけど、東京に行っても身体に気をつけてがんばってね」とひとこと言って、帰っていかれました。


 その前住職さんは私が幼い頃から大変お世話になり、尊敬する方でしたので、非常にうれしく、有り難く感じました。そして、頂いたお餞別を開けたところ、中の封筒にこの言葉が書かれていました。


  元気にご活躍ください。
  どこでもお慈悲の中。


 これはつまり、「八幡のお寺を離れてどこに行っても、あなたは阿弥陀さまのお慈悲の中にいることを忘れてはいけませんよ」というメッセージだったのです。


 心に刺さりました。普通であればすぐに捨てられるはずの封筒ですが、20年経ったいまでも、その封筒が私のカバンの中に入っています。


 「どこでもお慈悲の中」―このメッセージを見るときは、かばんの中の物を探している状況であったり、かばんの中身を整理しているときであったり、さまざまなシチュエーションがあります。場所も自宅であったり、職場であったり、いろいろな状況があるわけですが、どんな状況でも、この封筒を見ると自然に口から「南無阿弥陀仏」のお念仏が出てきます。そして、「南無阿弥陀仏」のお念仏を聞いて、阿弥陀さまのお慈悲の光が確かにいま届いていることを実感するのです。


 私は八幡を離れた後、築地本願寺の研究所やドイツのデュッセルドルフにある恵光寺などに奉職し、現在は仏教伝道協会に勤めています。日本を遥か遠く離れてつらいことも数多く経験しましたが、この「どこでもお慈悲の中」という言葉が常に心の中にありました。


  どこでもお慈悲の中
  のぞみはありませんが、
  ひかりはあります


 二つのメッセージには通ずるものがあります。私がたとえどんな状況に置かれても、どんな場所にいても、阿弥陀さまが決して見放すことはありません。大悲無倦常照我。阿弥陀さまのお慈悲の光は常に私を照らしているのです。


(本願寺新報 2023年12月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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