読むお坊さんのお話

ご縁の中に生かされて-何をしでかすかもわからない私のこころ-

梅園 浄(うめぞの・じょう)

大阪府八尾市・善立寺衆徒・行政書士

仲のいい兄弟姉妹

 昨年の12月、地元の市役所で行政書士による無料相談会が開かれました。私自身、行政書士としても活動しておりますので、所属する支部の無料相談担当員として参加しました。その相談会に、20代の方がお一人で来られました。

 無料相談会には毎回多くの方が来られます。その多くが「相続」やご自身の「終活」といった内容で、割とご高齢の方が多いように感じます。そんな中、その20代の方が同じように、終活についてのご相談でいらっしゃいました。しかし、それはご自身のことではなく、お母さんの終活についてでした。

 いろいろお話を聞かせていただきながら、「なぜ、お母さまの終活についてご相談に来られたのですか?」と質問してみました。

 お母さんには多くの兄弟姉妹がおられ、5年ほど前にお母さんの母、つまりおばあさんが亡くなられ、その相続の手続きをお母さんが中心となって、遠方の兄弟姉妹と連絡を取り合いながら頑張って進めておられたようです。

 そして遺産をどのように分けるかという話になった段階で、それまで話をしていた兄弟姉妹の雰囲気が少しずつ険悪になり、最終的には言い争いが増え、まとまるまでかなりの時間がかかったとのことでした。

 なぜ、言い争いになってしまったのか。最初はみんな平等に分けることで話が進んでいたのですが、その後、兄弟姉妹の数人が、多く遺産を受け取りたいと言い出したことがきっかけだったようです。何か事情があったのだと思いますが、お母さんもそれを聞いた時は相当なショックを受けられたようです。

 それまでは、相談者の20代の方から見ても、兄弟姉妹の仲は決して悪くなく、むしろ良かったようです。普段から何気ない電話をし合ったり、年に何回か実家に集まったり、時にはみんなで旅行に出かけることもあったそうです。しかし、そんな関係性が崩れてしまったのです。

 相談者は、自分の母にもしものことがあった場合、誰にどんなことが起きるのか、何か気をつけないといけないことがあるのか、また、お母さん自身が今からできることや考えておくべきことはあるのか、などについて知りたいと思って来場されました。

 そして、お母さんがこの一件をきっかけに、自身のこれからのことについて、もし自分に何かあったら、自分の家族にも大変な思いをさせるかもしれないと悩まれるようにになり、そんなお母さんの気持ちを少しでも楽にさせたいという気持ちが強かったようです。

私の姿の愚かさ

 お話を聞かせていただきながら、私は『歎異抄』の中の一節が頭に浮かびました。

 「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」   (註釈版聖典844㌻)

 親鸞聖人がお弟子の唯円にかけられた言葉です。

 「人を殺さないのはあなたが善い心を持っているからではなく、決して人を殺してはいけないと思っていたとしても、そうなる縁があれば、人さえ簡単に殺してしまうかもしれない」

 その言葉を、私はご相談を聞かせていただく中で心に重ねておりました。

 私たちは「縁」の中で生かされています。縁によってこの私のいのちをいただき、生かされてきました。自分の力ではどうにもコントロールできないような縁もあるわけです。その縁によっては、人は何をしでかすかもわからない存在なのでしょう。

 先ほどの兄弟姉妹のお話は、それぞれが、もめるつもりなど当初はなかったはずです。けれど、互いに言い争うまでになってしまいました。ありがたくも不思議なご縁の中に生かさせていただきながら、その縁によって今日に至るまで、いかなるふるまいもしてきたこの私がいるわけです。

 何事においても、今はそんなことはしない、起こさせない、とどれだけ強く心に決めたとしても、そうとも言い切れない私の姿があるのです。ご相談を聞かせていただく中で、そんな私の姿の愚かさ、ありようを、あらためて見させていただいたような気持ちになりました。

 また、それと同時に、この私にも「大丈夫」と、み仏のおこころが届いてくださっているのだと思うと、背筋が伸びる気持ちにさせていただきました。そんなご縁をありがたくいただいたことでした。

(本願寺新報 2024年02月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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