この私を支えるもの-「生きる意味」支える大きな「言葉」のはたらき-
野呂 靖
龍谷大学准教授・奈良県葛城市・西照寺衆徒

アウターを着る
「互いに呼びかけあう言葉によって私たちの生活は支えられている」。昨年、心理学を専門とする同僚の先生から、おもしろい話をうかがいました。
「いきいきと生活するための秘訣はアウターを着ることなんですよ」とその先生。
「アウターって、コートとかジャケットのことですか?」
「いや、そうじゃないんです。心理学の考え方の一つなんですけどね。アウターの『あ』は『ありがとう』と他人に伝える言葉のこと。『う』は『うれしい』、『た』は『たすかった』。つまり、ちょっとした感謝の言葉だったり、うれしい気持ちだったりを互いにかけあうことで、人は社会のなかで自分が生きている実感を得られるというんです」
「なるほど、たしかに助かったよっていわれると自分の生きる役割を感じて心があたたかくなるときがありますね」
「そうでしょう、だってアウターを着ると心も体もあたたまりますからね!」
人は一人で生きているのではない。互いにかけあう言葉に支えられながら生きている。非常にシンプルなお話ではありますが、この社会に生きる私たちを支えるものの一つとして言葉があることをあらためて感じました。
孤独を支えるもの
私たちのコミュニケーションの多くは、言葉を交わすことによってなりたっています。言葉はしばしば人を傷つけ、自らをも悩ませます。しかし、それでも他者とのつながりにおいて欠かすことはできません。
私が関わっている自死(自殺)にまつわる苦悩を支える相談活動(認定NPO法人 京都自死・自殺相談センターSotto)でも、そのことを実感しています。どこにも依りどころがなく、寂しさに押しつぶされそうになっているとき、たった一本の電話の声が大切なつながりを生みます。ともに活動している精神科医の松本俊彦さんから印象的なエピソードを教えてもらったことがあります。
アメリカの西海岸には、太平洋とサンフランシスコ湾を結ぶ海峡にかかるゴールデンゲートブリッジという大きな橋があります。観光の名所として知られるその橋は、そこから身を投げて自死をされる方が多い橋としても有名です。そこで、橋のたもとに定点カメラを備え付け、危機の迫った方を発見するとレスキューにいく、という取り組みが行われているそうです。ところがその映像を分析すると、あることがわかったというのです。
橋から身を投げようとされる方には、ある共通点がありました。その方たちはカバンを置き、ジャケットや靴まで脱いで、身につけているもの全てをはずして欄干につかまっている。しかし、全てを体からはずしたとしても最後まで手に持っているものがあるというのです。
「それは携帯電話なんです」と松本さんは話してくださいました。もう生きていけないと考え、命を絶とうとしている方が最後まで手に握っている携帯電話。誰か大切な人からかかってくるかもしれない。あるいは誰かの声を聞こうとしているのかもしれない。いずれにしても、人は最後の最後までつながりを求めている。そのように捉えることができるように思うのです。
よび声のなかで
「生きる意味」を見失いかけたとき、「あなたが必要だ」「あなたはここにいていいんだ」という他者からの「よびかけ」がこの私を支えていく。親鸞聖人はまさに、この「よび声」という阿弥陀さまのお救いのはたらきについて、ご和讃のなかで次のように讃えておられます。
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(註釈版聖典571㌻)
あらゆる世界のいのちあるものに対し、光明のなかにおさめとって捨てることはない阿弥陀さま。その「よび声」は「南無阿弥陀仏」のお念仏となって今この私のもとに届けられています。親鸞聖人はそうした仏さまのよび声に支えられた生き方を、しっかりとした大地の上で安心して生きていく生き方であるともおっしゃられています。
さまざまな問題に悩み、孤独を抱え、ときには死をも考えるこの「私」に対し、よびかけつづけ、見守りつづけてくださっているということ。ここに、「生きる意味」を支える大きな「言葉」のはたらきがあることを私はありがたく感じています。
(本願寺新報 2024年05月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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