読むお坊さんのお話

迷いの風景がかわる-阿弥陀さまのお慈悲のなかで心豊かに歩む-

葛野 洋明(かどの・ようみょう)

龍谷大学大学院教授・大阪府池田市・託明寺衆徒

南無せよ、阿弥陀仏に

 北海道に行ってきました。雄大な自然のなか、電車でゴトゴトと揺られて行きました。

 友人のお葬式のご縁でした。電車のなかでは、これから目の前にするお葬式の風景を思いながら、どんな言葉をかけたらいいのだろうかと、ため息をつくような車中でした。

 人のいのちに関わるご縁に、本当の意味で心に響くことばなど、迷いのいのちでしかない私には何一つないと痛感させられました。しかし「南無阿弥陀仏」だけは大丈夫です。なぜなら「南無阿弥陀仏」はさとりが迷いのいのちに、さとりを開かせようとはたらきかけている、さとりそのものだからです。今すでにいのちを終えた友人にも、悲しみの涙が止まらないご家族にも、この私にも、阿弥陀さまが「心配はいらない、どんな人生であろうと、どんな思いに打ちひしがれていても、必ず救う。あなたをお浄土に往き生まれさせ、この上ないさとりを開かせ、仏に成らせる。全ての用意・功徳は、この阿弥陀仏が成しとげて、至り届いているから、安心してまかせておくれ。南無せよ、阿弥陀仏に」と届いてくださっているのですから。

 お葬儀に悲しみの涙を流しながら「ああ、阿弥陀さまがいてくださってよかった」と、あらためて思わせていただいたことでした。

雄大な北海道の風景

 ご葬儀の後、また電車に揺られて帰路につきました。

 びっくりしました。窓の外を見ると、雄大な北海道の風景が広がっているではありませんか。大きな山がそびえ立っていて、麓は線路際まで牧草が広がっています。その広大な牧草地に、牛がのんびりと草を食んでいました。まさに「これぞ北海道!」という風景でした。

 来る時も窓の外にはあの雄大な風景が広がっていたはずなのに、何一つ覚えていないのです。行きの電車のなかでは、これから目の前にする悲しい風景ばかりに、気をとられていたからでしょう。帰りの電車は、阿弥陀さまのお救いが「心配しなくていい、安心なさい。この阿弥陀仏にまかせなさい。南無せよ、阿弥陀仏に」と至り届いてくださっていたことを、あらためて味わい、よろこばせていただいていたのです。そんな思いで乗った帰りの電車では、窓の外に広がっていた、あの雄大な風景が目に飛び込んできたのです。

さとりの風景のなか

 私たちは目の前のさまざまな出来事や風景に目を奪われるばかりです。それをクリアしていければ言うことなしですが、自分ではどうすることもできず、「こんなはずじゃあなかったのに」と後悔にさいなまれ、ただただ心が締め付けられるような風景も現れてくることでしょう。いのちを終えなければならない時には、必ずそんな風景が目の前に現れてくるのでしょう。

 阿弥陀さまのお救いを聞き受けることがなかったら、その風景に愕然とし、自分ではどうすることもできず、解決もなく支えもない、ただただうろたえるしかない。目の前に現れた風景に目を奪われ、いのちを終えていかねばならないのでしょう。そして、そのいのちはまた悲しみを抱き、涙するしかないいのちへとなり、迷い続けるしかなかったのです。それが私のいのちの本性でした。

 阿弥陀さまのお救い「南無阿弥陀仏・南無せよ阿弥陀仏に。まかせなさい、この阿弥陀に、心配はしなくてもいいよ。必ず救う」というお救いに遇うことを得た私たちは、たとえ目の前の風景に目を奪われようとも、阿弥陀さまのお救いを、あらためてこころにいただいて、今まで目をふさいできた悲しい風景ではなく、雄大なさとりの世界が広がっていることを、味わうことができるのです。

 阿弥陀さまのお救いに出遇うと、風景がこんなにも変わるのです。

 今まで見えていなかった雄大な風景が、いのちの終わりに初めて現れるのではありません。すでに雄大なさとりの風景のなかにあったのです。さとりが私を包みこんでくださっていたのです。

 今すでに阿弥陀さまのお救いが至り届き、この私をして阿弥陀さまのお救いを信ぜしめ、安心を与えてくださっています。阿弥陀さまのさとりの世界、その大きなお慈悲の風景のなかを、心安らかで心豊かにゴトゴトと、一日一日歩むことができるのです。

(本願寺新報 2024年05月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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