「あすありと」-「仏さまになるいのちを生きましょう」-
高田 篤敬
布教使・岐阜県本巣市・蓮教寺住職

はかないいのち
先月のはじめ、末娘の高校の入学式に参列してきました。今年は、4月に入ってから寒い日が続いて桜の開花も遅くなり、そのおかげで満開の桜を見ながらの入学式になりました。
約4年間、新型コロナのために自粛や規模を縮小しての行事が多くありましたが、少しずつもとのにぎわいがもどるようになりました。入学式でも、校長先生のご挨拶や来賓からの祝辞、校歌の斉唱も行われました。
式典の中で、「在校生 歓迎の言葉」として、3年生から新1年生への助言がありました。
「高校生活は3年間で、あっという間に過ぎてしまいます。だからこそ、チャレンジ精神を忘れず、一日いちにちを大切に過ごしましょう」という内容でした。そして、そのたとえに、「『あすありとおもうこころのあだざくら』という言葉があるように、高校生活はあっという間に...」と紹介されました。
宗門校ではない学校で、先輩からの言葉として、この表現がとても印象に残りました。
明日ありと思う心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは
これは、親鸞聖人が9歳の春、京都の青蓮院でお得度に臨まれるときに、その式をつとめてくださる慈円和尚から、おそらく夕刻を迎え時間が遅かったため、日を改めるご提案をされたところ、そのお返事としてよまれた歌である、と伝えられています。
「今日、満開の花をつけている桜でも、夜に強い風が吹いてしまえば、明日はもう見ることはできません」
この歌は、「明日をも知れぬいのちをどこに向かって生きればよいのでしょうか。その答えを求めて私はここに参りました」という親鸞聖人のご覚悟を、私たちに教えてくださいます。
この「明日をも知れぬ」私たちのいのちはまさに〝無常〟です。すべての事柄は移り変わっていくもの、はかないもの、無常をそのように表現しますが、ある方からこのように教えていただいたことがあります。
「〝なぜ、こんなことが起こるのか〟〝自分だけ、このようなことになるなんてひどいではないか〟〝納得できない〟〝到底受け入れるわけにはいかない〟これらが、いつなんどき、誰の身にも起こり得る。これを無常と言います」
鬼になるいのち
私たちは、とても恵まれた時代を生きています。寒い時には暖かくすることも、暑い時には涼しくすることもできます。離れた所にいる人とも簡単に連絡を取ることができますし、遠い所にもそんなに時間をかけずに行くことができます。離れた所で起こったこともすぐに知ることができ、明日の天気も簡単にわかります。
でも、ここまで便利になると、何もかも、自分の思い通りになると、つい考え違いをしてしまいます。そして、思い通りになれば自分を誇り、思い通りにならなければ、怒りをぶつけようとさえもしてしまいます。
考えてみますと、明日がどのような日になるのか、実はわからないし、自分に起こることも想像がつきません。自分のいのちがいつまで続くかもわからないのも当然で、亡くなった大切な家族や知人が、今はどうしているのかもわかりません。
無常の解決を求めて青蓮院を訪ねた親鸞聖人ですが、ではその答えはどのようにお示しくださったでしょうか。移り変わっていく、無常の私ですから、何かに変わっていきます。煩悩や迷いの根源が満ちている凡夫ですから、どんどん鬼に変わっていきます。仏さまからは、その姿があまりに残念で、「救わずにおれない」と私に願いをかけてくださる、その仏さまが阿弥陀如来です、と明かしてくださいます。
「まことによろこばしいことである。心を本願の大地にうちたて、思いを不可思議の大海に流す」
(現代語版『教行信証』645㌻)
800年前に親鸞聖人が記されたお書物で慶びを述べられた言葉です。それは、鬼に変わろうと生きている私たちに、「無常を生きるなら仏さまになるいのちを生きましょう」と、800年の時を超えて、今の私たちにかけてくださった言葉です。
生かされていることに気づき 日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように
(「私たちのちかい」)
仏さまになるいのちをしっかり生きましょう、と娘の式典での言葉にあらためて教えられた、桜満開の入学式でした。
(本願寺新報 2024年05月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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