読むお坊さんのお話

出来上がるまでに-果てしない雌思惟と修行の末に-

西村 慶哉(にしむら よしや)

龍谷大学世界仏教文化研究センター博士研究員

読書少年

 小学生の時のことです。

 スポーツ全般が苦手な私は、休み時間に友達が校庭で遊んでいる野球やサッカーに興味を示すこともなく、教室で本ばかり読んでいました。

 当時、私がとても熱中して読んでいた本は、3人の子どもの活躍を題材にした児童書のシリーズです。当時はまさにそのシリーズが刊行していく最中で、1年間に数冊のペースで新刊が発売されていました。私は新刊が出るとすぐさまに近所の書店に買いに行き、その日のうちに読み終えてしまっていました。そして新刊が出るまでの間は、図書館で持っていない過去作を借りてきては読んでいました。内容は同じですが、同じ本の文庫版と新書版を読み比べたりしていました。それほど熱中していました。

 ある日、新聞社主催で子ども向けイベントが開催されることを知りました。メインの催しは覚えていないのですが、さまざまな催しの中にある「豪華賞品が当たる抽選会」と、その児童書の作者さんの「新刊即売会&サイン会」という文字が目にとまりました。私は即座に母親に参加申し込みを書いてもらいました。

 そしてイベント当日がやってきました。まずは豪華賞品の当たる抽選会に参加します。すると幸先よく、特賞を引き当てることができました。賞品はとあるプロ野球選手のサイン入りバットです。しかし、前述の通りスポーツ全般に疎かった私は、その価値がよくわかっていませんでした。大変失礼なことなのですが、それよりも作家の先生のサインが待ち遠しかったことを覚えています。

 そして私にとってはメインイベントである、サイン会の行列に着きました。小学生の私にとってその順番待ちは悠久の時のように感じました。そして、ついに私の順番がまわってきました。

 先生の優しそうな喜色満面とした顔を今でも鮮明に覚えています。本人に出会えた緊張で言葉が見つからずにおどおどしている私を見かねた母親が、「この子は先生の本が大好きで、新刊が出れば1日で読んでしまうんですよ」と、話してくれました。すると先生はニコっとほほ笑んで、「1日で読むなんてすごいね! 僕はこの本を半年かけて書いたんだよ!」と、言葉をかけてくださいました。

 私はなぜだか、その言葉がとても印象に残りました。今まで何気なく読み進めていた本ですが、先生が読者に喜んでもらいたい一心で念入りな取材をおこない、アイデアを捻り出し、文章に推敲を重ねることでようやく完成したのだと思うと、たった1日で読み終えてしまうことが、とても申し訳なく感じたのです。普段何気なく手にしているものにも、それを完成させるまでの大変な苦労が込められていることを思い知る出来事となりました。

たった一声のために

 サイン入りのバットは公園で遊んでいるうちにいつの間にかなくしてしまいましたが、サイン入りの本は今でも書棚に並んでいます。今になって読み返し、あの時の情景を思い返すと、「私の口から出ている南無阿弥陀仏も同じことではないだろうか」と、ふと思いました。

 普段、何気なくおとなえしている南無阿弥陀仏ですが、親鸞聖人は、そこには、

  もろもろの善法を摂し、もろ

  もろの徳本を具せり。

     (註釈版聖典141㌻)

といわれます。

 「あらゆるいのちを救いたい」と願いを発された阿弥陀さまが、果てしない思惟と修行のすえに完成されたのが、南無阿弥陀仏ひとつの救いでした。ですから南無阿弥陀仏には、すでに私たちをお浄土へと生まれさせるためのあらゆる功徳が込められているのだとお示しくださっています。

 たった一声のお念仏ですが、「一声となえてくれてありがとう。私はそのために果てしない時間修行したんだよ」と阿弥陀さまが語りかけてくださっている気がします。

 ちなみに、そのプロ野球選手は海を渡り、大リーグで数々の記録を打ち立てるレジェンドとなりました。今となってはサイン入りのバットなど到底手に入るものではありません。今でも私は「なぜあの時、野球を知ろうとしなかったのか」と、深く後悔しています。

 子どもに喜んでもらおうと、どれだけ労力をかけて準備したものであっても、当の本人がその価値に気づかなければ、大利を失うことも同時に学びました。大人になった私は、野球も本もお念仏も、じっくりと時間をかけて大切に味わっています。

(本願寺新報 2024年09月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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