お彼岸にお浄土をおもう-阿弥陀さまに抱かれ続けている私-
西原 龍哉
布教使 千葉県松戸市・天真寺衆徒

「七つの子」を聞くと
先日、私はお子さんを亡くされたご門徒のお宅に、七回忌のご法事でお参りしました。おつとめの後、お母さんからその少年のさまざまな思い出話をうかがいました。少年は発達障害があったそうですが、とても優しくて、いつもニコニコしていたそうです。しかし、学校で意地悪をされることがたびたびあって、お母さんは毎朝、学校に行くお子さんの後ろ姿を見送っては、つらい思いをしていたと話してくださいました。
そして、私が特に印象に残ったのは、童謡「七つの子」を聞くと、少年はいつも涙していたというお話でした。「七つの子」は野口雨情という人が作詞した曲です。彼は他に「シャボン玉」「赤い靴」「証誠寺の狸囃子」などの作詞をしています。
子どもの頃にドリフターズのお笑い番組で育った私にとっては、「カラス なぜなくの」の続きというと、「カラスの勝手でしょ~」という替え歌のほうがすぐに出てきます。よく友だちとふざけて歌っていました。そんな私ですから、あらためて「七つの子」の歌詞を調べてみました。
からす なぜなくの
からすは 山に かわいい
七つの子があるからよ
かわい かわいと からすは なくの かわい かわいと
なくんだよ
山の古巣へ いってみてごらん まるい 目をした いい子だよ
あらためて読んでみて、とてもシンプルな歌詞なのに、カラスの愛情いっぱいの深い内容だなと思いました。その少年が涙したのも、カラスのなかに、親というものの底なしの思いを心で感じていたんだろうと想いを巡らせました。
私はこの詞から、阿弥陀仏を連想しました。そして、こんな替え歌がうかびました。
あみだ なぜよぶの
あみだは やみに かわいい
無数の子があるからよ
阿弥陀仏は南無阿弥陀仏の声となり、それは十方世界に響き渡っています。闇の中で闇を闇とも思わず無数の衆生が苦しんでいます。それらを一人として見捨てられないのが阿弥陀仏です。
慈悲の「非」
カラスというと、私の記憶に残るある先生のご法話があります。
テレビで東京のカラスの生態が放映されていました。カラスは木の天辺に近い枝に巣を作ります。雛が生まれるのは梅雨時で、つがいのカラス2羽がエサを巣に運んでいます。ちょうど2羽とも巣にいない時、バケツをひっくり返したような大雨が降り始めました。
巣には屋根がないので雛たちはずぶ濡れです。すると1羽のカラスが帰って来て、雛の上に覆いかぶさりました。雨が親カラスにたたきつけています。しかし、親カラスは必死に雛を抱き続けます。親カラスの翼はもう引き裂かれそうになっています。
その姿がテレビでアップに映った時、先生はその姿が「悲」という字に見えたそうです。「非」は翼が引き裂かれたように見えます。翼が引き裂かれようになっても抱き続ける心から、「慈悲」の「悲」に見えたのだとお話されました。
この私も、阿弥陀仏に抱かれ続けています。大雨が降っていても、大雪の中でも、強風の中でも抱き続けてくださっています。それが南無阿弥陀仏です。お念仏が出る時、私は阿弥陀仏にしっかりと抱かれているのです。
「七つの子」を作詞した野口雨情には、もう一つ代表的な童謡があります。「シャボン玉」です。シャボン玉は、はかないものの象徴です。それは阿弥陀仏に抱かれる私たちのいのちそのものです。
シャボン玉 飛んだ
屋根まで 飛んだ 屋根まで
飛んで こわれてきえた
シャボン玉 きえた 飛ばずに きえた うまれてすぐに
こわれてきえた
風 風 吹くな シャボン玉
飛ばそ
これは野口雨情が子どもを幼くして亡くした時に作られたといわれます。「こわれてきえた」と繰り返されているところにも、雨情の悲しみが伝わってきます。
しかし、そんな深い悲しみの中にあっても、阿弥陀仏のはたらきにおいては、風が吹いても、はかないシャボン玉は消えてしまうのではありません。そのシャボン玉は阿弥陀仏の世界に生まれるのです。今年七回忌を迎えたあの少年も、阿弥陀仏の世界、お浄土に生まれたのです。
カラスといえば秋の童謡「夕焼け小焼け」(中村雨紅作詞)にも出てきます。
夕焼け 小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
おててつないで みなかえろ
からすと いっしょに
かえりましょう
お彼岸の季節です。みんないっしょに、お浄土にかえる人生を歩みましょう。
(本願寺新報 2024年09月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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