聖人のご生涯を表紙に-師を師として仰ぎ続けられたおすがた-
羽渓 了
龍谷大学教授 福井県若狭町・明応寺住職

法然聖人なくして
1974年の創刊以来50年、布教使をはじめ伝道に携わる方々やご門徒を対象に刊行されてきた「伝道」誌が今春、101号で休刊となりました。私は2005年の64号から編集スタッフとしてご縁をいただいてきましたが、表紙絵も64号から昨年の100号まで担当させてもらいました。
その当初は、6年後に「親鸞聖人750回大遠忌法要」を控えていたことから、ご法要年の2011年の76号まで、親鸞聖人のご生涯を描かせていただきました。その翌年の77号からは、ご法要でつとめられた「宗祖讃仰作法」のなかのご和讃をテーマに、私の感じるままを描かせてもらってきましたが、ちょうど100号がその最後のご和讃となりました。
最初の表紙絵では、親鸞聖人のご生涯のスタートを「値遇」と題し、闇夜を優しく照らす月明かりを背景に頭を下げる聖人の肩にそっと手をかける法然聖人を描かせてもらいました。
親鸞聖人は9歳で比叡山での修行を始められますが、すでに法然聖人は京都の吉水でお念仏のみ教えを伝えておられました。近くにいてもあえない時にはあえないものですね。それから20年もの歳月を経て出遇われます。それまでの人生全てをこの出遇いに凝縮した思いです。
曠劫多生のあひだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし
(註釈版聖典596㌻)
と、法然聖人なくしての親鸞聖人はありえないと、ご生涯を描かせていただく76号までの13回中4回、およそ3分の1回の割で法然聖人にはご登場願いました。少しご紹介させてもらいます。
68号では、「暴虐の雲、光を覆い...」と題し、念仏停止の命令とともに、横暴極まりない裁きとなる「承元の法難」によって、よき人・法然聖人との別れという憂き目に打ちひしがれる親鸞聖人に、優しく寄り添われる法然聖人を描かせてもらいました。
この承元の法難のもととなるのが、興福寺が朝廷に専修念仏停止を強訴する「興福寺奏状」。現在放映中のNHK大河ドラマ「光る君へ」でも、時代はさかのぼりますが、朝廷に圧力をもって訴えるシーンがありました。同じ仏のみ教えを仰ぐご縁に遇っていても、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(同844㌻)とのおことばの通りです。善悪の二元論に陥ると、自らを善とし、他を悪としがちです。そうした確信が人を限りなく暴走させるのでしょう。時代は変わっても、私の姿は「恥づべし 傷むべし」(同266㌻)です。
愚者となって
75号では、「師主知識の恩徳」と題し、灯明を頼りに執筆に没入される親鸞聖人を、光と共に見護られる法然聖人、あるいはそうした法然聖人に思いを馳せながら執筆に励む親鸞聖人を描かせていただきました。
「よき人」からいただかれた教えの復興を願い、驚異的な執筆をされながら年を重ね88歳となられた聖人ですが、書かれたお手紙に「故法然聖人は、『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに」(同771㌻)と、よき人のおことばを大切に噛みしめておられます。師の年齢を越えても、どこまでも師を師として仰ぎ続けておられるお心がにじみでています。だからこそ、師の示された教えをより深く、より広く領解されたのでしょう。
76号は、いよいよご生涯最期ということで「かの土へはまゐるべきなり」と題し、「つひに念仏の息たえをはりぬ」(同1059㌻)と、目を閉じられる親鸞聖人の背景に、ご生涯を象徴する大きな波を表し、合掌する手、聖徳太子、恵信尼さま、そして法然聖人をうっすらと描かせてもらいました。
ご生涯のシリーズを終え、続いてご和讃をテーマとするシリーズとなりましたが、表紙絵としては最終となる100号において、はからずも、
智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ
(同595㌻)
と、法然聖人を讃仰されるご和讃がテーマとなったのです。
水面に咲く白蓮から光と共にかすかにそのお姿を感じさせる法然聖人を描かせてもらいました。
親鸞聖人と法然聖人という強いこだわりをもってスタートした『伝道』誌の表紙絵が、その最後の最後に、また再びとの深い感慨をいただくご縁でした。
(本願寺新報 2024年10月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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