読むお坊さんのお話

「自分を見失いそう...」-「なもあみだぶつ」という光の言葉-

中村 英龍(なかむら・えいりゅう)

布教使 広島市佐伯区・最広寺住職

心の不安

 広島の高校を訪れた時、生徒さんから文章で相談を受けました。

私は、何でも悪いほうに考えてしまいます。一日の中でちょっとした事や行事があったら、失敗したらどうしよう...とか考えてしまって、学校に行きたくなくなることがよくあります。体調が悪くて休んだら、友達が自分のことを何か悪く言ってるんじゃないかとか、すごく考えてしまいます。「前向きに考えんさい」とか言われるけど、むずかしいです......

 この生徒さんは、勇気ある人です。私も時々同じ悩みを抱えますが、50歳を過ぎても、心の内を誰かに告げる勇気はありません。不安や怖れを誰にも気づかれないよう、平静を装うばかりです。いつも周囲の人を見ながら、あんな度胸のある人になりたいと思っています。

 でも案外、みな平静を装っているだけで、心の内は同じなのかもしれませんね。

 「癒やしの仏教詩人」と呼ばれた、坂村真民さん(1909~2006)に次の詩があります。


死のうと思う日はないが

生きてゆく力が

なくなることがある

そんなとき

お寺をたずね

わたしはひとり

仏陀の前に坐ってくる

力わき明日を思うこころが

出てくるまで坐ってくる

   『詩集 念ずれば花ひらく』


 真民さんは、時宗を開かれた一遍上人の生き方に共感し、その教えに親しまれました。

 時宗と浄土真宗は、ともに浄土宗を開かれた法然聖人の専修念仏をルーツとします。教えは少しちがいますが、私たちも時々、お寺の本堂に座ってみませんか。どこへ行っても人間関係がついてくる社会、みんな心が疲れています。体は1日の終わりに休めますが、心はどこで休めるのでしょう。だぁれもいない本堂に私がひとり、阿弥陀さまのお姿を仰いで座ってみる...。そんな心を休める時間と場所が、大人にも子どもにも必要です。

如来の慈悲を聞く

 阿弥陀さまの功徳は、両手の形(印相)に象徴されます。右手は智慧、左手は慈悲。如来は智慧の右手をかかげ「あなたのうつむいた顔を上げてごらん」、慈悲の左手を私たちの足もとに向けて降ろし「ほら、もう大丈夫。如来があなたを抱いているよ」と喚んでくださいます。

 智慧と慈悲のお姿で、如来の「摂取不捨」(摂め取って捨てず)というはたらきが、私たちに届いていることを表しておられるのです。

 例えば、プールで子どもが溺れそうになったとき、親がその子を抱き上げても、まだ溺れていると思って子どもは泣いています。

 「お母ちゃんを見てごらん、お母ちゃんの顔を見てごらん」と呼びかけられ、ハッと顔を上げてみると、母親はニッコリ「ほら、もう大丈夫」。子どもはすでに親の腕の中。

 私たちも、社会の評判・うわさという荒波の中を泳ぎ渡っているつもりが、いつの間にか溺れているのでしょう。「自分ってダメだな...」という心が私を襲った時、私たちは人を見ることに恐れを抱き、自分の殻に閉じこもります。

 そんな時、「なもあみだぶつ」とつぶやいてみませんか。阿弥陀さまの智慧と慈悲のお姿は「南無阿弥陀仏」という光の言葉とあらわれ、閉ざされた私の心を世の中全体のつながりに開いてくださいます。「そこに、大事な意味があるんだよ」と。不安や怖れる心、時には失敗も、私の人生全体のつながりの上に「経験」という意味が開かれます。「経験豊かな人」という表現がありますが、言葉を換えれば「失敗の豊かな人」なのでしょうね。失敗という経験は、必ず誰かによりそう心となり、みちしるべとなり、私の人生の豊かさとして生かされます。

 どうしても自分と向き合えない時、私たちは自分の不安の声を聞くのか、世間の評判の声を聞くのか...。そうではなく、私たちは光の言葉を心に聞いてゆきたいのです。思い通りにならない世の中にあって、決して自分を見失わせないもの、どんな境遇に置かれてもこの私に光を照らし、私を受けとめる大地となり、生きる希望となり、私を前に歩ませてくださるのが「なもあみだぶつ」という光の言葉なのです。

 最後に、街角でみた詩をお届けします。


  過ぎ去りし日は

  わたしの深さであり

  来たる日は

  わたしの広さとなる

  今、このひとときを

  ていねいに生きよう

(本願寺新報 2024年10月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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