仏道を歩む-如来さまのはたらきによって導かれる-
佐々木 隆晃
相愛大学教授 兵庫県猪名川町・圓行寺衆徒

正しさと優しさ
人付き合いには、悩みがつきものです。自分自身、正しくありたいですし、まわりの人にはできる限り優しくしたいものです。でも、それがかなわず、なあなあで済ませられない時には、心の中に葛藤を抱くことになります。一生懸命な思いが強いほど、葛藤はより大きなものになるのかもしれません。
私には中学2年生の娘がいますが、他人なら笑って済ませられることも、時に厳しく言わねばならないことがあります。いいよ、いいよ、と何でも許すことができたら、どんなに楽でしょうか。そんな時、自分が正しいのかどうか、そこまで言わなくてもよかったのではないか等々、正しさと優しさの基準は本当に難しいものです。
「正信偈」には阿弥陀如来のお心が示されていて、くわしい題名を「正信念仏偈」といい、正しい信心と念仏の歌という意味です。信心は心、念仏は南無阿弥陀仏のことですから、正しい心(信心)で南無阿弥陀仏とお念仏する歌、と言い換えることができそうですが、どうでしょうか。正しい心でいることも、すなおに南無阿弥陀仏と申すことも、どちらもとても難しいかもしれません。
正しいことには厳しさがともないます。正論を振りかざすと人を傷つけてしまうことがあり、私が正しいと思っていても相手にとってはそうでないかもしれないし、誰から見ても正しければ、それは相手もわかっているのではないでしょうか。わかっていてもそうできないこともあるでしょう。私が葛藤しているのと同様に相手も悩んでいるなら、それを質すのがいいことかどうか。自分のものさしを省みるのは本当に難しいですね。
見方はそれぞれ
世代によって見え方は違うのでしょうが、一つの枠に当てはめて考えるのは気を付けねばなりません。ついつい「若い人は...」「古い人は...」と言いたくなってしまいます。そんなことを中学生の娘から教えられました。
娘の通っている学校は中学と高校が一つになっていて、校舎の中にエレベーターがあります。中学1年生の教室は6階でした。2年生も同じ6階で、3年生になると5階になります。高校1年生は4階、2年生は3階というように、学年が上がるとだんだん階が下になっていくのです。
小学生の時には、1年生の教室は1階にありました。ついこの間まで園児さんですから、窓から落ちたり階段でケガをしないように下の階に配置されるのでしょう。2年生は2階、3年生は3階と、学年が上がれば階が上がっていきます。その時と逆になっていることを不思議に思って、娘に聞いてみました。
「なんで学年が上がると下の階になるんだろうね?」
すると娘はこう答えたのです。
「あんな、お父さん、高校生にもなるとな、階段がしんどくなんねん」
思いもしなかった答えでした。考えてみると中学1年生から見れば高校3年生はずいぶんと大人で、若さも体の疲れ方も違うのでしょう。高校生を年寄り扱いするのはコクですが、十代の人にとって5年の差は大きなものです。そういえば私が勤めている大学でも、学生さんは2階の教室に行くにも混雑しているエレベーターを使う人が多いです。すぐ横の階段を使っているのは、健康を気にして運動をしている教職員、ということがしばしばです。
若い人も年をとるし、それぞれの生活で疲れもします。老病死とはいつかやってくるものではなく、いま生きているところにそれぞれが背負うものだと気づかされました。
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
(註釈版聖典606㌻)
親鸞聖人のご和讃です。「無明長夜の灯炬」という言葉があります。長い夜のような闇の中で悩みたたずむ私に向かって、光となって仏さまのはたらきが届いていることを教えてくださっています。灯炬の灯とはともしび、明るい光です。炬とは炬燵という言葉があるように、あたたかい光です。明るさで正しい道へと導き、あたたかさで包み込む優しい光です。
「正信念仏偈」の正しい心とは、私の考える自分勝手な正しさではなく、仏さまのはたらきによって導かれる心でした。南無阿弥陀仏を通して気づかされ、正しさと優しさに包まれて過ごすことのできる人生を、仏道を歩むことと味わわせていただいています。
(本願寺新報 2024年10月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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