蛇蝎のこころ-阿弥陀さまに照らされているからこそ-
緒方 義英
東九州短期大学教授 福岡県築上町・寳蓮寺住職

自分は善人
毎年7月から9月の3カ月間は、お寺の境内の草取りが日課になります。酷暑の時季の草取りは大変骨が折れるもので、日中の作業は熱中症のリスクも伴います。そこでわが家は、夜明けから朝6時までと決めて、毎日少しずつ草を取るようにしています。
作業時間が短いため、1日の負担はそれほど大きくないのですが、その分、境内の草を取り終えるまでに日数がかかり、一周する頃には、また新しい草が生えています。取っても取っても生えてくる、そのような草の生命力に圧倒されながら、「ああ、今日も草との戦いか」と、ため息をつく日々を送っています。
ときどき「トイレで考え事をする」という人がいますが、私の場合は、草取りをしている時によく考え事をします。意識をしているわけではありませんが、気がつけば、大体何かを考えているのです。ご法義(み教え)のこと、家族のこと、仕事のこと、数年前から始めた家庭菜園のことなど、いろいろと頭に浮かびます。
例えば、「家庭菜園の野菜は手をかけてもなかなか思うように育たないのに、どうして何も手をかけていない草がこんなにもよく育つのだろうか」とか、「この草をおいしく食べられたなら、草取りも楽しいだろうな」とか、目に入る草についても考えることがあるのです。
ある日、「草にも命があるのに、その命の尊さを微塵も感じず、まるで邪魔者を排除するかのように草を取っている。命を勝手に奪っておきながら、まったく罪悪感がない。なんと無慈悲で身勝手な人間だろうか」と思って、恥ずかしくなりました。
私は、心のどこかで、草取りを「善い行い」と考え、褒められることはあっても決して責められる行為ではない、と信じていたように思います。つまり、草取りをする自分を「善人」だと思っていたのです。
しかし、草の命のことを考えると、これはたいへんな悪業で、とても罪深い行為だと言えます。大仰に聞こえるかもしれませんが、私が草の立場なら、草取りをする人間は、まちがいなく「極悪人」です。
そもそも私の生活は
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる
(註釈版聖典617㌻)
親鸞さまは『正像末和讃』に、このような凡夫の私の心を「蛇蝎のようだ」とたとえ、その罪悪性について教えてくださっています。
蛇や蝎は、昔から悪賢い生き物の代表格で、厚かましく卑怯な性格であるとされてきました。「餌食を獲得する」という目的を達成するため、自身の毒で相手の命を奪うのです。そのような邪悪な習性を持つ蛇や蝎が、果たして相手の命のことを思いやるでしょうか。
私の心も同様です。目的を達成するためには相手(草や虫)のことを顧みず、毒をも用いて命を奪います。さらに、その悪業を、自分の都合のいいように正当化するのです。何をするにも「蛇蝎のような心」を離れませんから、懸命に善行を修めようとしても、そこに必ず毒(三毒と言われる貪り・瞋り・愚かさの煩悩)が雑じり、決して真の善行とはなり得ないのです。
そもそも、私の生活は、数えきれない動植物の犠牲によって成り立っています。「食事」という行為だけを取ってみても、毎日、多くの命を奪いながら生きているのです。存在そのものが「罪と不可分」で、生きること自体が罪深いと言えます。
そうであるのに、その罪を意識することもなく、何食わぬ顔で平然と過ごしています。罪を罪とも思わず、慚愧することさえない。これが私の「性分」です。
蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん
(同618㌻)
阿弥陀さまのご本願に遇うことがなければ、この「邪悪な性分」に気づくことはなかったでしょう。阿弥陀さまの光明に照らされ、智慧の念仏をいただいているからこそ、自身の悪性が知らされ、「無慚無愧の身」を恥じるようにもなりました。
さぁ、今日も朝から草取りです。草が生えれば、やはり取らないわけにはいきません。「罪障おもし」と嘆きたくなる気持ちもありますが、「蛇蝎のこころ」と知らせてくださる阿弥陀さまのご恩に感謝しながら、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すばかりです。
(本願寺新報 2024年09月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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