たしなむ心は他力なり お念仏を主とした生き方を送る
満井 秀城
勧学・広島県廿日市市西教寺住職
除夜の鐘に思う
今年も、あとわずかとなりました。
元日に発生した能登地方の大地震、そして翌日の羽田空港での事故も被災地救援に向かうときの悲しい事故でしたし、全国各地で多くの自然の猛威に直面され、寒い越年を余儀なくされている人たちの多さに思いを馳せると、心が痛みます。自らはいろいろあったにせよ、何とかこうして年越しを迎えようとしていることに罪悪感さえ覚えます。
また、ウクライナやガザのニュースを見聞きするにつけ、自らの想像力の乏しさに絶望します。社会の様相に、もっともっと眼を向けねばと自戒しつつ越年を迎え、複雑な思いの中にもお慈悲はあると感じています。
私も、そして、お寺に除夜の鐘をつきに来てくれる参拝者の人たちも、どのような思いで鐘をついてくれるのだろうかと自問しています。
除夜の鐘は、百八つつくことが多いでしょう。人間の煩悩は百八つあるという通説から来ているようです。私自身の実感からは、百八つくらいでは済まないような気がしますが、そんなことを言っていたら、永久に止められません。百八という数字は、六大煩悩を基本にして細分化したものでしょうから、厳密に言うと「数」ではなく、「分類」に当たるように思います。
そもそも、「鐘をつきながら、一つずつ煩悩を消していく」なんてことが可能でしょうか。毎年、一つずつ消していけば、二十年後には八十八に減っている。おそらく、そうはいかないでしょう。鐘をつくという行為そのものにそんな力があるとは思えません。
煩悩成就のありさま
親鸞聖人は、私たちの煩悩的なありようを、「煩悩成就」という表現を用いておられることがあります。
「煩悩成就」は、元々は、曇鸞大師の書かれた『往生論註』にある言葉ですが、『往生論註』自体に、この言葉の説明はありません。ただ、「願力成就」については、「願によって力が生じ、力は願にかなっている」と説かれ、相互に関係しあいながら形づくっている状態を言うようです。
この観点で、「煩悩成就」を見ると、「煩」は身を煩わせ「悩」は心を煩わせることと考えれば、「身と心が互いに影響しあいながら、負のスパイラルを形成している状態」と考えられるかと思います。
また、「功徳成就」という言葉もあります。「功徳成就」には、「功徳が仕上がっている」という意味のようでもありますが、私たち衆生の側に「仕上がる」という状態は考えにくいと思います。
おそらくそのため、江戸期の学僧・道隠和上は、煩悩成就のことを「川の水を刀で切るようなものだ」とおっしゃっていたと記憶します。川の水を刀で切れば、一瞬は切れたようでも、すぐに川の流れは繋がっていきます。このありように例えることで、煩悩が次から次へと湧き上がってくる動的な状態を表現しているように思います。
「不断煩悩得涅槃」
このような煩悩的存在であることに気づくことで、煩悩のたれ流しを少しでも改めたい思いが芽生えることは、大切な意識転換と言えるでしょう。これまで阿弥陀さまを泣かせ続けてきたことに気づいた上には、「もっと泣かせよう」と思うはずはありません。「これ以上、泣かせることはすまい」と、方向性が変わるものです。「煩悩具足」や「煩悩成就」の身であることは、生涯変わることはありませんが、このような、「内発的な変革」のことを、昔から、「つつしみ」や「たしなみ」と言ってきました。
蓮如上人のお言葉には、
こころにまかせず、たしなむ
心は他力なり。
(註釈版聖典1250㌻)
とあり、煩悩が支配するわが心にまかせず、「たしなむ」身となるのは、他力のもよおしであると示されています。また、
弥陀をたのめば、南無阿弥陀
仏の主に成るなり。
(同1309㌻)
とも上人はおっしゃっています。
このお言葉のように、迷い心である煩悩をわが主とするのではなく、南無阿弥陀仏のお念仏を主にした生き方を送りたいものです。
「不断煩悩得涅槃」(私が煩悩を断つのではなく、仏力・他力が絶ってくださる)のお言葉を心に刻みながら、今年も除夜会に臨みたいと思っています。
(本願寺新報 2024年12月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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