読むお坊さんのお話

仏かねてしろしめして 春となり 愚かな私にまたかえる

栗原 一乗(くりはら・いちじょう)

布教使・広島県三原市浄楽寺住職

人間の愚かさ

 立春から雨水も過ぎて、春の温かさが待ち遠しい頃となりました。今の時期は、まだ受験シーズンでもあり、就職活動解禁日は3月1日と、目の前にせまっています。

 受験や就職活動での面接で、面接官が質問する目的の一つは、「自己分析ができているか」を見るためだそうです。しかし、自分で自己分析をすることは、決して簡単なことではありません。ましてや、血液型によって性格が決められるなどというようなものではありませんね。

 以前、子どもが高校受験で面接を受けるにあたって、指導の先生から、「友達や家族から自分の長所・短所を聞いてください」と言われたと、子どもが言っていたことを思い出します。自分では気づけない面を、他の人に聞くことによって、深く自分を知ることができます。

 作家で早稲田大学名誉教授の加藤諦三先生が、NHKのラジオで、「人間は自分に嘘をつく。自分の中にある感情と向き合わずに抑圧していく。しかし、自分の見たくない感情を直視していくことが人間の成長である。自分に嘘をつくと人生は破滅する」ということを話されていました。

 抑圧された感情は、意識の中で消えることはなく、体調不良や、不安定な感情に形を変えて現れることがあるそうです。その対応策の一つは、カウンセリングを受けることです。カウンセラーとの対話によって、心の奥底に閉じ込めた感情に気づき、向き合うことによって状態が良くなっていくそうです。しかし、特に自分の嫌な感情を認めることは容易なことではないそうです。

 加藤先生は、心理学の視点から話をされたのですが、仏教と心理学は、自己と向き合うという点では共通しているなと、素人ながらに思いました。自分と向き合うということは、自分を知るということなのでしょうね。

 心理学は人間の弱さが知らされるように、仏教は人間の愚かさが知らされます。

心うるおす法雨

 親鸞聖人は徹底的にわが身、わが心と向きあっていかれたお方でした。比叡山でのご修行の中で、押さえることのできない煩悩の火に苦悩され、その後、六角堂の参籠を経て、吉水の法然聖人におあいになりました。

 法然聖人から聞かされた、阿弥陀仏の本願のこころは、乾いた心を潤してくれる「法雨」でした。

 『歎異抄』に、親鸞聖人がお弟子の唯円房から「念仏しても、おどりあがるような喜びの心がそれほどわいてきませんし、はやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらいいでしょうか(意訳)」と尋ねられたと記されています。

 すると親鸞聖人は、「あなたも同じ心持ちだったのですね。喜べないのは煩悩のしわざなのです」と答えられたといいます。

 そして「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば」(註釈版聖典836㌻)と続きます。

 すなわち、「そうした煩悩からはなれられない私たちであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから」とおっしゃっているのです。

 自分の力で知ったのではなく、阿弥陀仏の本願に遇うことによって、心の奥底にある悲しみ、愚かさが、より深く知らされたのではないでしょうか。比叡山の修行で抑えることのできない煩悩の火に苦悩されたということは、自分自身を否定しておられたのでしょう。だからこそ苦悩されたのでしょう。

 しかし、阿弥陀仏だけは、否定されることなく、凡夫の力では煩悩を断ち切ることはできない、生死の迷いの境涯から離れることができないと見抜き、さとりの功徳のすべてを「南無阿弥陀仏」に込めて、「まかせよ。かならず救う」とよびかけてくださっています。

 親鸞聖人は、阿弥陀仏から「親鸞よ」と名指しでよび続けられていたことに気づかれ、阿弥陀仏の救いにおまかせして「愚禿釈親鸞」と名乗り、90年のご生涯を生き切っていかれました。

 いまこの愛憎違順の私の身にも、言葉の仏と姿を変えてよび続けてくださっているのです。

 春が近づくこの時期になると、お念仏をよろこんだ祖母、父親の影響をうけた小林一茶の句を思い出します。

 

  春立つや愚のうえに又愚に

  かへる

(本願寺新報 2025年02月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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