読むお坊さんのお話

かけがえのないいのち -得難い出来事が、いま私の人生の上に-

前田 壽雄(まえだ ひさお)

武蔵野大学准教授 北海道・専念寺衆徒

初めての"お参り"

 5月になりますと、親鸞聖人のご誕生をお祝いする降誕会(ごうたんえ)が、本願寺をはじめ、各地の寺院で営まれます。北海道にある私のお寺では、降誕会にあわせて初参式(しょさんしき)を行っています。初参式とは、この世に新しいいのちを恵まれて初めてお寺にお参りをする大切な儀式です。

 赤ちゃんがお参りをするということは、必ずそこに親や家族がそろうことになります。初参式は、いのちの誕生をご本尊の阿弥陀如来に奉告(ほうこく)し、新しいいのちの歩みを始めることであり、家族そろって迎える仏縁となります。親も子も、ともに阿弥陀如来の大いなる慈悲の中に抱(いだ)かれていることに思いをいたす大切な仏事です。

 また、新たに恵まれたいのちとは、両親や家族だけではなく、はかり知れないご縁があって生まれてきたことです。勤行(ごんぎょう)聖典の冒頭などに掲載されている「礼讃文(らいさんもん)」(三帰依文(さんきえもん))には、「人身(にんじん)受け難(がた)し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」と示されています。この世に人として生まれ、得難い仏法という真実に出遇(あ)うことができたという極めて希有(けう)な出来事が、いま私のこの人生において実現していることの意味を受け止める言葉です。日々の生活の中で、思いを新たにさせていただきたいものです。

 ところで、私のお寺の初参式に参拝された赤ちゃんには、お念珠や記念品を授与し、記念写真を撮影します。その写真は、お寺に掲示していますが、初参式を始めて今年で29回目となりますので、29枚の写真が飾られることとなります。

 これまでに初参式を受けられ、大人になってお寺にお参りをされた方の中には、「ここに写っているのが私だね。こんなに小さかったんだね」というほほえましい言葉を耳にすることもあります。これらの写真をみつめることで、かけがえのないいのちを恵まれたよろこびを、あらためてかみしめるきっかけにもなることでしょう。

 このようないのちの大切さ、ありがたさを私の身において思い知らされる出来事が一昨年にありました。

生かされている私

 一昨年の夏は記録的な猛暑日がつづき、大変暑い夏でした。北海道も例外ではなく、猛暑の中、ご門徒のお宅のお盆参りをしていました。日を追うごとに、身体にだるさを感じていました。そしてお盆参りを終えて自宅へ帰ると動けなくなってしまい、翌朝は目をはっきりと開けることもできず、身体を起き上がらせることもできなくなりました。まぶたや顔はふくれ上がり、腕も足もお腹(なか)もむくみ、とても重くて動けません。いつも当たり前にしていることが当たり前にできなくなっていました。そのため急きょ、妻が当時小学1年生の長男を連れて、私を病院まで運んでくれました。

 その病院には、私が通院していたことから顔なじみの看護師さんがいましたが、その方は私の姿を見るだけでは私であることに全く気づけなかったそうです。また、医師から症状の質問をされ、きちんと応えているつもりでしたが、医師は私が何を言っているのか、よくわからないようで、受け答えができる状態ではありませんでした。

 検査を受けると、肺に水がたまり、心臓は肥大し、脳に障害を及ぼす危険性があるという結果が出ました。症状も次第に悪化していき、むくみやだるさのほかにも嘔吐(おうと)、食欲不振、極度の高血圧、頭痛、寒気、息苦しさ、呼吸困難、けいれん、意識障害が起こってきました。

 そこで医師からは「あなたのいのちは危ない」と告げられたのです。そのとき私はただベッドに横たわっていることしかできず、自分のいのちは自分ではどうすることもできないということを痛感させられました。

 ことしも、このいのち生かされて降誕会をつとめさせていただきます。いのちには限りがあり、必ず人は死ななければならないということ、生かされて生きているということ、だからこそかけがえのないいのちの尊さを、この降誕会や初参式を通してかみしめさせていただきたいものです。

(本願寺新報 2017年05月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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