読むお坊さんのお話

人生を振り返って

曽我 弘章(そが こうしょう)

千葉・純心寺住職

泥の中の美しい花

 人生を振り返って後悔することはありませんか?

 罪の意識に苦しむことはありませんか?

 取り返しのつかないことほど、忘れてしまいたいことほど、いつまでも心の中で生き続けます。反省は懺悔(ざんげ)の心です。罪の重さに心が痛むことは、「申しわけありません」という気づきが芽生えている証拠です。

 「申しわけありません」と思う気づきは、「どんなあなたであろうと、決して見捨てはしません」という、今まさに目の前にある阿弥陀さまのお心に気づくご縁となることでもあります。

 阿弥陀さまは、私と一緒に苦しんでくださり、悲しんでくださっています。私たちは、そんな阿弥陀さまの深い思いを胸に抱いて歩むのです。阿弥陀さまは、いつも私たちの心の底を静かに照らされています。その思いに照らされて、私の愚かさを知らされるとき、泥の中に根を張りながら、泥に染まらないで美しい花を咲かせる蓮(はす)のような輝きを放ち始めるのが、心の底から湧き起こる懺悔の気持ちです。

 何度となく自己嫌悪に陥ったり、心がくじけたり、悲しいほどの後悔を繰り返しながらも、「申しわけありません」という気持ちが少しでもあれば、「元気を出そう。何か今からでも私にできることはないだろうか」「今日一日だけでも、背筋を伸ばして前を向いて素直に生きてみよう」と、毎日新たな一日を、新たないのちを歩むことができるようになるのです。

 ありのままの私をまるごと受け入れてくださる阿弥陀さまのお心が、私を生かし、今日を新たに歩ませてくださる力になるのです。

ほんとうの幸せとは

 私たちは、過ぎ去った過去を変えることも、明日の私に触れることもできません。しかし、今日の私のいのちは見つめることができます。私たちは、生きていることを当たり前のように思っていますが、一切のものは時々刻々と移り変わり、生滅(しょうめつ)していますから、縁に会えば今日が人生最後の日でも不思議ではありません。人のいのちのはかなさが、悲しさが、身に染みます。

 通り過ぎていく時間の中で、二度とない今日一日のいのちの尊さに触れるとき、「あなたをどうしても助けたい」と誓われた阿弥陀さまの願いに包まれて生きる、生死(しょうじ)を乗り越えて生きるいのちに気づかされます。

 また、人生にはつらく苦しいことも多々あります。暮らすことにつまずき、生きることに戸惑うこともあるでしょう。理不尽な仕打ちに傷つけられることも、何を信じてよいのかわからなくなることもあるでしょう。誰もがみな心に何らかの傷をかかえて生きています。

 お釈迦さまは、「人生は苦しみです」と仰(おお)せられました。この世は思い通りにならない、苦しみの尽きない、耐え忍ばなくてはならない世界です。

 しかし、苦しみや悲しみという縁を通して、本当の幸せとは何かということを問う心が起こったら、真実に耳を傾けることができたら...。

 誰にも言えなかった私の心の中を阿弥陀さまにさらけ出せたら、阿弥陀さまのお心を知り、「ああそうだったのか」と合掌している私がいたら...、それは尊いことです。

 阿弥陀さまがご本願を起こされたのは、どうしても救われなければいけない私がここにいるからです。阿弥陀さまのお心は、すべてのいのちを救い幸せにするという大慈悲のお心です。すべてのいのちを救うとは、この私も絶対に救われるということなのです。

 阿弥陀さまは、さみしくて悲しくて怖(こわ)くてうつむく私をそっと抱きあたため、淡々と凛々(りんりん)と悠々と生きられるようにやすらぎを、喜びを与えてくださるのです。何が起こっても、どんなことがあっても、阿弥陀さまがご一緒です。これだけは忘れてはいけません。私たちは、私を決して見捨てられない、その阿弥陀さまの大慈悲のお心の中に、すでにいるのです。

 私の目に見えない真実、この「幸せになってほしい」と願い続けてくださっている阿弥陀さまのお心に気がつくかつかないか、この違いは大きいのです。

(本願寺新報 2015年11月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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