あなたの泣ける場所は・・・
米田 順昭
広島・最禅寺住職

ぐっとかみしめ我慢
2年前のある日の夕方、当時3歳の娘が、お寺の境内で自転車の練習をしていました。まだ慣れてないのでいつ転んでもおかしくありません。ちょうどお参りから帰ってきた私は、その姿を見ていました。
「お父さん見ててね~」と調子にのっています。
私が「気をつけなさいよ~」と言ったその時です。機嫌よく乗っていた娘が、パタリと転んでしまったのです。それみたことかと、私が慌てて駆け寄ろうとすると、娘がすっと立ち上がりこっちに向かって来ます。
その時、私はその姿を見て驚きました。なんと、泣き虫なはずの娘が泣いていないのです。涙をぐっと噛みしめて、がまんしています。私はケガはしてないかと思い、走って来る娘を受け止めようとしました。
すると、走ってきた娘はそのまま私の横を素通りして、玄関から家の中へ入っていくではありませんか。どこへ行くのかと後を追うと、娘は真っ直ぐに、台所にいるお母さんの所へ行きました。そして、お母さんの足にしがみついて、そこで初めてワーッと泣いたのです。
妻は「どうしたの」と聞きますが、娘はただただ泣いているだけでした。
本当に痛いのは転んだ時だったはずです。しかし、そこでは泣きませんでした。不安そうな顔をして、下唇をかんで我慢していました。安心できるお母さんに抱かれて初めて泣いたのです。娘にとっての泣ける場所はお母さんでした。
安心して泣く
『観無量寿経』というお経に、マガダ国の王妃イダイケが泣く場面が描かれています。それは息子の皇太子アジャセが、お釈迦さまのいとこのダイバダッタにそそのかされてクーデターを起こし、父ビンバシャラ王を幽閉してしまいます。そして、ビンバシャラ王を助けようとしたイダイケも、アジャセによって幽閉されてしまいます。
息子によって牢獄に入れられたイダイケは深く悲しみ嘆いて、雨のような涙を流しながらお釈迦さまに助けを請います。その心を知られたお釈迦さまはすぐにイダイケの所に来られました。
お釈迦さまの姿を見たイダイケは、みずから首飾りを絶ち、大地にわが身を投げだして、号泣してお釈迦さまに胸の内のありったけをぶつけたのです。イダイケにとってお釈迦さまは、全てを投げ出して泣くことができる存在でした。
お釈迦さまは号泣するイダイケをそのままに受け止めておられました。苦悩のすべてを受け止められたイダイケは、苦しみなき世界へ生まれたいという願いをおこします。これはイダイケが現実を受け止め、前へ進もうとしている姿です。
そういえば、私にもこんな経験があります。
あるお寺でお取り次ぎさせていただいた時のことです。あるお同行さんが、法話の最中に静かに泣き始められたのです。私としては、泣くような話をしたつもりはありませんでしたが、話の内容が変わっても、しばらくそのお方の涙はやみませんでした。
私の母も、自坊でご法座がつとまった時、ご講師の先生が淡々とお話をされている中、一人泣いていることも少なくありませんでした。私はその姿を横目で見ながら、何を泣いているのだろうと思ったことを今でも思い出します。
母は、涙をそそる喩(たと)え話を聞いていたのでもなく、ただ普通におみ法(のり)をお聴聞していただけでした。
お同行さんも母も、阿弥陀さまのお慈悲の中で、自らの人生を照らし合わせて涙していたのかもしれません。二人にとって、泣ける場所は、ご法座だったのです。
考えてみると、泣ける場所はそう多くはありません。この世は、がんばって笑顔を作り、自分をごまかさなくてはいけないことの方が多いのかもしれません。
ゆっくりと自分に向き合える場所。そのままの私でいられる場所。悲しみを悲しみのままごまかさずにいられる場所...。
さあ、私にとっての泣ける場所はどこでしょう?
あなたにとって泣ける場所はどこですか?
(本願寺新報 2013年12月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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