伝わるよろこび -浄土真宗を脈々と支えてきたもの-
深水 顕真
広島文教大学非常勤講師 広島県三次市・専正寺住職

何をのこすのか
「お仏壇をお迎えして本当によかったと思います」
先日お参りしたお家のご門徒から聞かされた言葉です。この方はお母さまが亡くなられたのを機に、田舎の家にあったお仏壇を、市街地の自宅に迎えられました。
「子どもや孫が、この家に来た時、仏壇に手を合わせてくれるようになりました」
この言葉には、親からいただいたお仏壇を相続したこと以上に、お念仏が子や孫に伝わったよろこびが感じられました。
さて、私たちはこの人生で何をのこし、何をよろこびとするのでしょうか。多くの人が、少しでも長生きをし、よい仕事をして、たくさんの財産をのこしたいと思っています。私自身も、住職として、大学の教員として、そして父親として何がのこせるかと日々もがいています。
しかし、この世の価値はいくら積み上げても、結局は無となるものです。そして、この「むなしさ」は、どんなに努力し頑張っても拭(ぬぐ)い去ることはできません。仏教では、この「むなしさ」の原因を無常といいます。仏教の目的とは、この「むなしさ」を受け止め、乗り越えることにあります。
親鸞聖人も比叡山で20年の修行を重ね、この「むなしさ」を乗り越えようとされましたが、自らの力で達成することはできませんでした。そして、お念仏の教えに出遇(あ)うことで、「むなしさ」を乗り越えるのは阿弥陀さまの他力念仏の救い以外にないといただかれました。親鸞聖人が書かれたご和讃(わさん)には次のような言葉があります。
本願力(ほんがんりき)にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし
(註釈版聖典580ページ)
この和讃では、阿弥陀さまの救いをいただくものは、この世の「むなしさ」を乗り越え、功徳に満ちた人生を送ることができると述べられています。長生きや、いい仕事、たくさんの財産といったものへのこだわりを乗り越えた、よろこびの世界があるのだとのお示しです。
では、今を生きる私たちは「むなしさ」を乗り越えたうえで、具体的に何をのこし、何をよろこびとするのでしょうか。
2枚の木札
私が住職を務めるお寺には、内陣(ないじん)の裏側の上部に二つの大きな木札がかかっています。一つは、「大正八年」、もう一つは「平成二十一年」と記されています。最初の木札は現在の本堂が新築された時のもので、「宮殿(くうでん)・須弥壇(しゅみだん)新調」の記述と施主のお名前が記されています。
もう一つの木札は、親鸞聖人750回大遠忌(だいおんき)法要の時のもので、「宮殿・須弥壇塗り替え」と記述され、施主のご家族3人のお名前が記されています。この宮殿・須弥壇とは、阿弥陀さまの仏像が安置されている場所のことです。
私は内陣に入るたびに、この木札を仰(あお)ぎ見るのですが、お寺の400年の歴史とともに、ご門徒の物心両面の支援によって護持されてきたのだということを感じることができます。そして、ここで大切なことは、それぞれの施主の思いは、単に本堂の中に名前をのこすことだけではなかったということです。
残念ながら、相当の金銭的負担で「宮殿・須弥壇」をのこしても、無常の世にある限り、その形も記憶もいつかは消えるものです。たとえば、平成の木札について、その法要は私自身の住職継職に併せて行われたものでもあり、経緯をよく知っています。しかし、百年前の大正の木札については、その詳しい背景などは存じ上げません。
わずか百年で大正の記憶はうすれ、さらに時間がたてば平成の記憶もなくなるかもしれません。つまり、単に名前をのこしただけでは長生きや財産へのこだわりと何も変わらないということです。
冒頭のエピソードでのご門徒のよろこびは、仏壇を相続したことだけではなく、お念仏が子どもや孫に伝わったことにありました。本堂にある二つの木札に記された施主の思いも同じところにあったはずです。「宮殿・須弥壇」という形あるものをのこし名前をのこしただけではなく、この本堂でお念仏の救いが伝わることをよろこばれたのではないでしょうか。このよろこびが、浄土真宗を物心両面で脈々と支えてきたといえるでしょう。
(本願寺新報 2022年07月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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