お念仏の道を歩む―何ものにも揺るがされない確かな救い―
葛野 洋明
龍谷大学大学院教授 大阪府池田市・託明寺衆徒

新しい一年の始まりを、今年もお念仏とともに迎えさせていただくことができました。
阿弥陀さまのお救いは、「南無阿弥陀仏」一つの確かなお救いです。
阿弥陀さまが仏に成る前に発された、元々の願い・根本の願いといわれるご本願とは、この私を「この上ないさとりそのものである無上仏にならせよう」 と願われていました。この願いは単なる希望ではありません。「必ず救う」という誓いであり、この私を救うのに必要な全ては、阿弥陀さまが用意してくださって「南無阿弥陀仏(南無せよ阿弥陀に。まかせよ必ず救う)」となって、至り届いてくださっているのです。
私たちの毎日は、いろんな出来事に出あい、喜んだり、悲しんだり、一喜一憂する日暮らしを繰り返しています。また、ご一緒してくださっている方々との関わりのなかで、いろんな立場にも立たせてもらいます。いわばいろんなステージに立たせてもらいつつ、目の前の出来事に喜んだり悲しんだりしながら生きていると言えるでしょう。
喜びや悲しみは、私の心から発せられた感情です。私の心は自分勝手な思いばかりの、いわゆる「煩悩」が全てそろっていますから、その心から発せられた情によって、振り回され、さいなまれ続けるのです。
阿弥陀さまは、この私を「自らの情によって、自らを縛り付け、自らを苦しめ、迷いを深めていくしかないいのち」とご覧になって、そのような私を「もう二度と情に振り回されてさいなまれ、縛り付けられるようないのちにはさせない。さとりを開かせ、仏に成らせる」とお救いのご用意を調えてくださったのです。
阿弥陀さまのお救いが至り届き、聞き開かせていただいてからは、喜びも悲しみも、いろいろある人生を「何があっても大丈夫」と、安心のなかにお念仏の道を歩ませていただけるのです。
昨年は、私の身の上にいろんな出来事がありました。
まずは何より、一人娘がすばらしい人生の伴侶とのご縁に恵まれ結婚しました。二人ともお念仏を大切にする夫婦です。二人でお念仏の道を歩み始めました。父親としてこれほどうれしいことはありません。娘が嫁いでいなくなった家で、今までと同じお念仏を称え、同じお念仏の道を歩ませていただいています。
続いて、うれしいことばかりならよかったのですが、実父がいのちを終えて、葬送のご縁がありました。息子としてこれほど悲しいことはありません。すでに同じお念仏の道を歩まさせていただいていましたから、葬儀の時も安心のなかにお念仏が口にあふれてくださいました。今も同じお念仏の道を歩ませていただいています。
また、連れ合いの父も、いのちを終えました。悲しみにくれる連れ合いのそばにいることしかできず、夫として何もしてあげられない歯がゆさと、申し訳なさでいっぱいでした。その連れ合いとも、ともに同じお念仏の道を歩まさせていただいています。
誕生日がやってきて、還暦となりました。家族からお祝いをしてもらい、とてもうれしいことでした。うれしいような、少し歳を取ったなあと感じるような、そんな歳になりました。歳を重ねても同じお念仏の道を歩まさせていただいています。
父として、息子として、夫として、還暦を過ぎた年格好となり、いろんな立場に立たせてもらいながら、喜びや悲しみがたくさんあって、人生のステージがめまぐるしく移り変わったような一年でした。
これからの人生も、また新しいステージが展開することでしょう。いろんな出来事に出あっては、喜びや悲しみが湧いてくることでしょう。でも大丈夫です。どんな時も阿弥陀さまが、「大丈夫、心が揺れ動いて、情に振り回されるあなただということは、元の元から知っていたよ。そんなあなたこそ必ず浄土に往き生まれさせて、この上ないさとりそのものに成らせると誓いを発したんだよ。もう情に振り回され、情にさいなまれるようないのちにはさせはしない」と至り届いてくださっていたのですから。
この確かな「南無阿弥陀仏」のお救いは、もう何ものにも揺るがされることのないお念仏の道を、心安らかに歩ませてくださいます。
(本願寺新報 2023年01月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
※カット(え)の配置やふりがななど、WEBサイト用にレイアウトを変更しています。
※機種により表示が異なるおそれがある環境依存文字(一部の旧字や外字、特殊な記号)は、異体文字や類字または同意となる他の文字・記号で表記しております。
※本文、カット(え)の著作権は作者にあります。