「出遭い」は慶び-人生の充実は出あいによってもたらされる-
名和 康成
布教使・北海道三笠市・善行寺住職

胸が熱くなる
今年は「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」がつとめられ、さまざまな催しが行われました。京都国立博物館では「親鸞展」が開催され、聖人の直筆のお書物やその他たくさんの宝物が展示され、多くの方が足を運ばれました。
親鸞聖人のお書物は見る者をハッとさせます。まず、きれいな紙。とても800年前のものとは思えません。墨で書かれた字も鮮やかです。当時は、紙も貴重なものだと思います。関東の門弟たちの支援、その他さまざまな方々のお支えがあり、現代までみ教えが伝わってきたことに胸が熱くなります。
お書物には、ご往生されるまで、何度も加筆訂正されていた跡があり、それをじーっと眺めていると、「どうかお念仏のみ教えにであっておくれよ」という親鸞聖人のお声が聞こえるような気がいたしました。
親鸞聖人は、師である法然聖人、そして阿弥陀如来と、その教えをお伝えくださった祖師方に出あえた慶びを、「遇」という字を使って表現されています。一般的には「会う」という字を使うことが多いと思いますが、この「会」は会議や会合といったように、ある目的のために人があつまるという意味で、日と時間、場所を約束してあう場合は「会」の字が使われます。
一方で「遇」は、「二つのものがふと出あうこと」を意味し、私にとっては思いがけない出遇いであった、その深い感動を「遇」という字で表現されたのでした。
また、こちらからは思いがけない出遇いですが、相手からすると、たまたまではなく、ずっと出あおうとしてくださっていた、知ろうとしてくださっていた、見てくれていた、そのことにたまたま気づくことを「遇」という字で示されたとお聞かせいただくのです。
親鸞聖人のお書物を拝見していると、遠い過去からこの私に出遇おうとしてくださっていた思いを感じます。たとえ実際のお姿を拝見できなくても、時間と空間をこえた出遇いが今ここにあることに感動を覚えたことでした。
しあわせでした
ご門徒の方で、70代の女性がいらっしゃいます。数年前に最愛のご主人を亡くされました。妻のことを案じつつ、常に家族のことを第一に考えている方でした。ご主人のことをお話しされようとすると、いまだに涙ぐむことがあります。
ある年の10月頃、北海道は冬支度に入る時期ですが、私にしみじみと語られたことがありました。
「お父さん(主人)が亡くなって、今までは木の冬囲いは手伝う程度だったんだけど、いざ自分だけでしようと思うと、これがなかなか難しいの。添え木を組んで、それを縄でしばるのがなかなかうまくいかなくて。その時に、ああ、お父さんが元気なうちにきちんと教えてもらっておけばよかった、と思うの...」
大好きな朝ドラをその女性が見逃さないようにと、タイマー録画をしてくれていたご主人。亡くなってからも毎日録りためられていたのを眺めながら、「私は主人に本当にお世話になっていたんだなあと今さらながら思います」とお話しくださったのが心に残りました。
生きている間はたとえ毎日のように顔を合わせていたとしても、その方の心に触れるということはいかに難しいことか。ふとしたことをきっかけに、たまたま知ったご主人の思い。しかし、それはその女性にずーっとかけられていた思いであり、きっとこの先も消えることなくその女性の心の支えとなり、人生を味わい深く彩ってくださるに違いありません。
「私は主人と一緒になることができてしあわせでした」
ご主人への思いを語りつつ、お仏壇に手を合わせられる女性のお姿は、聖人がお示しくださった「出遇う」ということのお心の一端を深く味わわせていただく尊いご縁となりました。
親鸞聖人は「我にまかせよ必ず救う」とはたらいてくださる阿弥陀さまと、そのことをお伝えくださった祖師方との出遇いを人生の慶びとされた方でした。
「聞きがたいみ教えをいま聞くことができ、出遇うべき人に出遇えた」とおっしゃるそのお言葉は、「私の人生、思い残すことはありません」とまで聞こえてくるようです。
南無阿弥陀仏のみ教えに出遇えた慶びをいただきつつ、人生の充実は出遇いによってもたらされるということを、味わわせていただくのです。
(本願寺新報 2023年10月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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