読むお坊さんのお話

『百羽』のツルにあう

花岡 瑞絵(はなおか・みずえ)

布教使・浄迎寺副住職

祖父・花岡大学

 2月6日、私の祖父で児童文学者であった花岡大学の生誕114年を迎えました。4年前の生誕110周年の時には、地元の奈良県大淀町でさまざまな展示やイベントが開催され、その際に制作されたメモリアル動画『百羽のツル』は、現在も大淀町公式動画でみることができます。

 祖父は数多くの作品を残しましたが、中でも『百羽のツル』は、代表作として今なお多くの子どもたちに読まれ、小学校では、国語や道徳、図工にまで採用されています。

 「つめたい月の光で、こうこうとあかるい夜ふけの空」を百羽のツルが飛んでいました。長い旅路を共にし、きれいなみずうみをめざして飛んできた百羽のツルでしたが、その群れから一羽の子どものツルが下へ下へと落ちていきます。病気だった子どものツルが、目的地を目前にしたみんなのよろこびをこわさないよう、一人黙って落ちていくのです。

 そのことに気づいたツルの鳴き声を合図に、九十九羽のツルが、ぎんの矢のように飛び下り、さっと羽を広げ、一枚の白いあみとなって、子どものツルを受けとめます。

 子どもを救ったツルたちは、また何事もなかったように群れをなして目的地に向かって飛んでゆくのです。

 あらすじを述べると、たったこれだけのお話です。短いお話ですので、私も何度も読みました。鋭く淡々とした表現の中に、心温まる内容、美しさが詰まったお話。そんな印象でしたが、あらためて深く読ませていただく機会に恵まれました。

 「『百羽のツル』でディベートしてみない?」という催しに参加した時のことです。ディベートというと、何か議論し合って論破し、勝敗が決まるような感じがしますが、そうではなく、『百羽のツル』を読んで、それぞれが持つ疑問や思いなどを語り合い、聞き合うというものです。

 そこで参加者の一人が第一声、「なぜ百羽なんだろう?」と問いかけました。

極楽を覆う宝の綱

 なぜ百羽か? なんて考えたこともありません。

 続けて「もしかして、セーフティネットワークを表しているのでは?」という意見。

 「つらいときは、助けを求めていいんだよっていうことを伝えたかったのでは?」

 「なぜ子どものツルの親は出てこないの?」

 「戦争が背景かも」等々。

 最初はどうなることかと思っていましたが、さまざまな意見が次々と出され、お互いにいろいろな味わいや疑問を話し、聞き合っているうちに、それは私自身の問いや味わいになっていきました。

 なぜ百羽なのか? 百って何? 気にもしていなかったことが、気になり始めました。しばらくして、そうか、「百」はただの「百」じゃないんだと感じ始めました。

 「ただの百」でも「九十九足す一」の「百」でもない。「百が一で一が百であるような一」。一羽の子どものツルのいのちの中に他の九十九羽のツルのいのちがおさまっている。そんな縁によって繋がったいのちだから「あたりまえのように」助けることができたのかもしれない。

 病気の子どものツルを受け止めた九十九羽のあみは、ほどけば一本の糸になるように繋がっていたんだ、そう思いました。

 『阿弥陀経』に、極楽浄土には七重の「羅網」(宝の網飾り)があり、『無量寿経』にも、宝の網がおおいめぐらされている、と説かれています。

 お浄土の荘厳は、阿弥陀さまがご覧になった真実の世界、いのちの有り様を表したものです。百羽のツルが織りなしたあみは、お浄土に広がる宝の網のように、私の、私たちのいのちの本当のすがた、いのちの連帯を描いているのかもしれません。

 これは一つの物語です。読み方は自由です。物語でなければ表せない世界があります。仏さまの世界も物語で表されます。それは架空の作り話ではなく、私たちに『ほんとう』とは、こういうあり方をしているんだよと教えてくれます。そして同時に、それとは反対のあり方をして生きている私自身を教えてくれます。

 「おじいちゃん、それを私に伝えたかったんか?」

 何気なく参加した催しでしたが、『百羽のツル』を通して、はからずも祖父に遇わせていただいたことでした。

(本願寺新報 2023年02月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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