「真の智慧と慈悲」とは-阿弥陀さまの慈悲に包まれ寄り添われる人生-
朝戸 臣統
仏教婦人会総連盟講師・岐阜県高山市・神通寺住職

末法思想
仏教では「末法思想」という歴史観が説かれます。
お釈迦さまがお亡くなりになられたあと、だんだん人間も世の中も汚れ、乱れ、悪くなっていって、智慧と慈悲を備えた真の修行者や、悟りを開く人がいなくなってしまうという受けとめ方です。
親鸞聖人は、そのような「末法」を生きる私たちをお救いくださるために、阿弥陀さまが真の智慧と慈悲を成就されたのが、「南無阿弥陀仏」のおよび声でありました、とお示しくださいました。
ところが、こういう歴史観に対して、私たち現代人は素直にうなずけないところもあるようです。
「時代とともに悪くなっているっていうけど、本当だろうか? むしろ逆で、だんだん良くなっているのでは? 人間の英知を結集した科学や医療が進歩していく中、便利で暮らしやすい世の中になっているんじゃないの?」
そのことについて、深く考える機会がありました。
思い上がる人間
お経には、「末法」の時代は、避けがたい5種の汚れが生じているという、「五濁悪世」が説かれます。
「劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁」の中、2番目に説かれる「見濁」とは、思想が乱れることで、邪悪な思想、見解がはびこることだと示されます。
ある勉強会で、そのことについて先生がおっしゃった言葉に、本当にうなずかされました。
「経典に説かれる『見濁』とは、思想が乱れて、邪悪な思想や見解がはびこることを表します。
これを具体的に言うと、人間が思い上がっていく、ということです。
それは、人間の積み上げた知識や経験こそが正しく、科学と理性によって人類の幸福がもたらされるのだ、という考え方です。
仏教なんて、非科学的な考え方は古くさいよ、これからは科学と理性こそが正しい考え方だよ、というのが、多くの現代人の受けとめ方ではないですか。
そうやって、人間が積み上げた知識や経験を当て頼りにして、本当に私たちは幸福になっているのでしょうか。
むしろ、欲望に振り回されて、苦しみや悲しみの中、不幸を生み出してしまっていないでしょうか」
私を見抜かれた仏
アメリカで作られた映画が、日本でも上映されて話題になりました。第二次大戦中に「原子爆弾」を作り、英雄と称えられた科学者が、やがて苦悩を抱えていくという、実話をもとにした映画です。
従来の爆弾とは比較にならない、壊滅的な破壊力を持つ「原爆」を作り出した主人公は、国民から「英雄」と称えられました。
しかし、この願いが完成してもたらされたのは、本当の幸せなのだろうか。争いの終結なのだろうか。むしろ、多くの不幸ないのちを生み出し、さらなる争いを引き起こしてしまったのではないだろうか。
人間の奥底に抱えた欲望を離れることができないがゆえに、苦悩を生み出してしまう。それは、理性という名の「人間の思い上がり」こそが人類の不幸を生み出してしまうということを、この映画が示しているように感じるのです。
もちろん、時代とともに科学や医療が進歩してきたことは、間違いありません。便利で暮らしやすい世の中になったのは、本当にありがたいことです。
でも、私たちの「心や行い」は、時代とともによくなってきたでしょうか。世の中は清らかになってきたでしょうか。むしろ、たくさんの苦しみや悲しみを生み出してしまっていないでしょうか。
「真の智慧と慈悲を成就した仏に成る」というみ教えとは、全然違う方向を向いてしまっているのが、私たちの生き方ではありませんか、と厳しく問うてくださるのが、南無阿弥陀仏のお心なのです。
末通った智慧も慈悲も持ち得ない私であることを見抜かれた阿弥陀さまは、「そのようなあなたを救う仏に、私が成る」との願いを成就されたのが、南無阿弥陀仏でした。
今まで、自分の積み上げた知識や経験を握りしめて、「見濁」の思い上がりの中で生きてきた私の生き方に気づかせてくださるのが、阿弥陀さまの真の智慧でした。そして南無阿弥陀仏とお念仏申すままに、阿弥陀さまの大いなるお慈悲に包まれ、寄り添われる人生を歩んでいける。
阿弥陀さまの真の智慧は、そのまま慈悲のはたらきそのものなのです。
(本願寺新報 2024年06月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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