読むお坊さんのお話

よび声とともに 愚かな闇を照らす知恵の光に導かれ

児玉 智文(こだま・ともふみ)

京都市伏見区文相寺住職

妙好人・源佐さん

 「阿弥陀如来」という仏さまは、南無阿弥陀仏の名号(念仏)を私にあたえて、「必ず救う。我にまかせよ」とよび続けています。愚かなこの私を、そのまま救う仏さまです。

 しかし、愚かなまま救うということであれば、私は今のままで、考えも行動も変わらなくていいのだろうか、努力したりする必要もないのだろうか、といった疑問の声も出てくるようです。

 はたして、お念仏のみ教えに生きるということは、そのようなことなのでしょうか。

 「妙好人」のお一人に「因幡の源左さん」がおられます。「妙好人」とは、浄土真宗の篤信な念仏者を称えた呼び名です。

 源左さんは18歳で父親を亡くし、祖父母や母親、弟妹たちのために一生懸命働き、そして人生の苦悩の解決のためにお寺の法座にお参りし続けられた方です。

 その勤勉で謙虚な言動などにより、県やご本山から何度も表彰され、多くの方から慕われていました。

 その源左さんがある日、よその人の田んぼの穴をなおしているところに、知り合いの人が通りがかりました。

 不思議に思ったその人は「こんな所で何をしているのか」と聞くと、源左さんは「ここを通りかかった時に、田んぼに大きな穴があいとって、おらは止めるようなやつじゃないけど、『源左よ 源左よ。源左が止めないと、この田んぼは干上がってしまうぞ』って、親さん(仏さま)がいわれるので、少し通り過ぎたけど、後戻りして止めとるんだ」とおっしゃったそうです。

 源左さんは、自分は、他人への親切な心は持ち合わせていないけれど、生きとし生けるものすべてを平等に救うという阿弥陀如来の声(教え)に呼び覚まされて、他人の田んぼの穴をなおしているのだとおっしゃっているのです。

 つまり、自分の考えに従って田んぼの穴をなおしているのではないというのです。自分の考えに従うのであれば、他人の田んぼだからと通り過ぎてしまうわが身だったのです。しかし、実際は、そのようなわが身を恥じながら、仏さまの声に呼び覚まされて、他人の田んぼの穴をなおしているというのです。

 お念仏をよろこび、家族だけではなく他人や動物に対しても優しく親切に接する源左さんを、周りの人は仏さまのような人だと感じていたようですが、仏さまの光に照らされた源左さんご自身は、まったくそのように思っておられませんでした。

 それどころか、自分さえよければいいという、どこまでも自己中心の心、煩悩から離れられない愚かな存在であると気づかされておられたのです。

 そして、その煩悩をかかえながら、いつも阿弥陀如来の光に包まれ、導かれながらの人生を歩まれたのです。

お念仏の人生

 親鸞聖人はご和讃に、

  無明長夜の灯炬なり

  智眼くらしとかなしむな

  生死大海の船筏なり

  罪障おもしとなげかざれ

     (註釈版聖典606㌻)

と、お示しくださっています。

 親鸞聖人は、私たちは真っ暗闇の中で、本当のことが見えていない愚かな存在であり、迷いの海に沈んでしまうような罪の重い存在であるとおっしゃるのです。

 しかし、そういう愚かな私に、「智慧の眼を持つようにしなさい」とおっしゃるわけではないのです。「罪や障りを滅するようにしなさい」とおっしゃっているわけでもないのです。

 そういう愚かで罪深い存在であるからこそ、阿弥陀如来という仏さまは、智慧の光となって、私の姿や歩む道を照らし、迷いの海を渡る船となって、私の人生を支え導いてくださっている。だから、悲しみ嘆く必要はないのですよとお示しくださっているのです。

 我欲の煩悩をかかえている私たちは、悩み苦しみながら生きています。さらに自分だけではなく、周りの人を苦しませ悩ませながら生きています。

 本来、煩悩とはなくさなければならないものなのでしょうが、残念ながらなくすことのできないわが身です。しかし、そんな愚かな私には、いつもそばで導いてくださる方がおられるのです。

 私自身、清らかで尊い心に変わることはできませんが、これからも、変われないわが身の愚かさに気づかされながら、仏さまのおよび声をたよりに、お念仏の人生を歩ませていただきたいと思っています。

(本願寺新報 2025年03月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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