読むお坊さんのお話

一人ぼっちの道じゃない 決して捨てないと誓われた阿弥陀さま

三上 明祥(みかみ・みょうしょう)

布教使・滋賀県大津市本福寺住職

どこにあるの?

 私は、お寺の住職とともに保育園の園長をしています。朝はできるだけ園の玄関に立ち、子どもや保護者の皆さんを「おはようございます」と迎えるようにしています。ある朝のこと、いつものように玄関に立っていると、4歳の女の子が少しうつむき加減で私のもとへ歩み寄ってきました。そして、ぽつんとこう尋ねたのです。

 「園長先生、天国の道ってどこにあるの?」

 突然の問いかけに、私は思わず言葉に詰まりました。「天国」とは本来、宗教的な意味を持った言葉です。ただ、彼女が口にしたその言葉には、「亡くなった人が行くところ」という純粋な思いが込められていたように思います。きっと、何かがあったのだと思いました。

 私たちの園では、日々の保育の中で、仏さまに手を合わせることを大切にしています。子どもたちにも「亡くなった人は仏さまの国に往くんだよ」というお話を聞かせたこともありました。おそらく彼女は、その中で聞いた仏さまの国と、頭の中で思い描く「天国」のイメージを自分なりに重ね合わせたのでしょう。

 私はとっさに、こんなふうに答えていました。

 「実はね、園長先生も仏さまの国には行ったことがないんだよ。だから、その道がどこにあるかは園長先生にもわからないんだ。でもね、み仏さまは〝いつでもどこでも一緒だよ〟って言っているでしょう。 だから、その道はきっと一人ぼっちのさびしい道じゃないと思うよ」

 その答えを彼女がどう受けとめたかは今でもわかりません。しかし、それよりも大切なことがあります。それは、なぜ彼女がそんな問いを私に向けてきたのか、ということでした。

 後から知ったのですが、彼女の大好きだったおじいちゃんが、数日前に亡くなっていたのです。

 「死んだらどうなるの?」「おじいちゃんはどこへ行ったの?」「大人たちは、死んだ、亡くなったっていうけど、死ぬって一体どういうこと?」――

 彼女はその小さな胸でおじいちゃんの「死」という現実を必死で受けとめようとしたのでした。そして何より、「さびしい」という気持ちをその一言に込めていたのでしょう。

後生の一大事

 さて、皆さんなら、この問いにどのようにお答えになるでしょうか? 今、保育園で子どもたちの育ちゆく姿を見ていると、自分の生命の行き先を、人間の生命の営みを、子どもたちにしっかりと伝えていくことは、大人の大きな責任であると思うことがあります。だからこそ、この彼女の問いは同じく私自身の受けとめを問う言葉として聞こえてきたのでした。

 「あなたは、死んだらどうなるの?」

 「あなたの生命はどこに向かっているの?」と。

 仏教では、生と死を分けては考えません。「生死一如」といって、生と死はコインの裏表のように、切り離せない同じ生命の姿だと教えています。

 生と死が表裏一体であるならば、「死んだらどうなるの?」という問いの解決は、そのまま、「あなたの生命はどこに向かっているの?」という問いの解決にもなると言えます。だからこそ蓮如上人はこのことを「後生の一大事」とよんで、あなたの生命をどんなことがあっても決して捨てないと誓われた阿弥陀さまの国、お浄土をこの生命の往く先と定めて生きることをお勧めになったのです。

 天国の道はどこにあるのかと尋ねた4歳の女の子にとって、その道はきっと、死というえたいの知れないものの向こう側、行ったことのないどこか遠くにある場所としてイメージされていたことでしょう。だからこそ、そこに別れのさびしさや不安が募るのです。

 しかし、阿弥陀さまのお浄土を往く先とする人生が恵まれたとき、その「道」はどこか遠くの不確かなものではなく、今ここに生きる私が歩む「道」となって照らし出されます。それはさびしさや不安が募る迷いの人生にあったとしても、決して捨てることはないと誓われた阿弥陀さまの願いに包まれながら歩む確かな道でもあるのです。

 あの朝、「道ってどこにあるの?」という突然の問いに、私の口からとっさに出た一言、

 「その道は、一人ぼっちの道じゃない」

 それはまさに、阿弥陀さまと共に歩む私自身の道でもあったのです。

(本願寺新報 2025年05月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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