原因は人の心?「おかげさま」の心に生きる念仏者の姿
河智 義邦
岐阜県聖徳学園大学教授・島根県邑南町明賢寺住職
いざとなれば...
昨年からおこった「令和の米騒動」。農政の問題やマスコミ報道など原因はいろいろ言われていますが、「米がなくなるらしいよ」という不安・消費者心理が広まり、一部の業者や家庭での買い占めが起こり、米の流通が滞ったと指摘されています。
行動経済学では、不安に駆られて過剰に買い占めすることを「パニック購買」というそうです。最近では新型コロナのマスクパニックがあります。その行動の原因の一つとしてあげられているのが「自己中心性」です。
何もない平生には、共生が大切だなどと言っていても、いざとなれば、状況次第で他者をかえりみず、自分の取り分を最優先に考え行動してしまうのです。恥ずかしながら私自身も、そんな思いからマスクを求めて早朝から並んでいました。
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(註釈版聖典844㌻)との親鸞聖人のお言葉が心にしみます。
さて、「心」と「行動」の関連を追究してきた仏教思想に唯識思想があります。大学2年生の時、唯識思想を研究されている仏教学の先生のご自宅にお招きいただいたことがあります。その時、お仏壇の隣に飾られていた扇子を指して「これはなんと書いているかわかりますか?」と先生が尋ねられました。
「三界唯心」と書かれていたのですが、答えることができず、初めて唯識思想の一端に触れさせていただきました。それが、自身の勉強不足を痛感し、広く仏教を学ぶきっかけを作ってくださる出来事となりました。
手をポンと打つと
「三界唯心」とは「この世界に真実に存在しているのはただ心のみ」という難解なものですが、私のような初学者には、次のような歌を手がかりにして教えてくださいました。
手を打てば
鯉は餌と聞き
鳥は逃げ
人は茶と聞く
猿沢の池
手をポンと1回打つと、池のコイは餌がもらえるかと好意的に捉えて寄ってくるが、鳥は危険を感じて逃げていき、茶店の人は客が呼ぶ合図だと聞く。このように、同じ一つの音を聞いても、その音を受け取る側の立場によって音の意味が変わるというものです。
友人間、家族間でも、ある出来事や現象に対する捉え方、評価、意味づけはそれぞれの立場によって違います。また、私個人の中でも、その時の自分の都合によって、時に晴れを良い天気といい、日照りが続くと悪い天気と評価します。その時の自分の都合や心のありようによって、ものごと(世界)を作り上げ、価値・意味を決定しているのです。
「唯識」とはそんな自己中心の心がいかにしてとらわれを離れた清らかなおさとりの「心」と「行動」へと転換していけるのか、人の心の仕組みやはたらきを追究する思想なのです。
親鸞聖人は、ご和讃に「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり(悪い本性はなかなか変わらないのであり、それはあたかも蛇やさそりのようである)」(同617㌻)と自身の心のありようを偽りなく吐露されています。
一方、お手紙の中では「阿弥陀さまのご本願(智慧と慈悲)を聞かせていただくと、自分本位にしか生きられない悪性・無明の存在であることに気づかされると同時に、できる限り身をつつしみ、言葉をつつしんで、少しずつでも煩悩をいとう生き方が恵まれる」(取意)とも明かされています。
浄土真宗における「心」と「行動」については、常にお念仏申して阿弥陀さまのお心を手本とさせていただくことが肝要であるとお示しくださいました。
生涯をお念仏に生きぬかれた先ほどの先生は、若い私に対してもいつも丁寧で温かな態度で接してくださいました。仏教研究についても、近道で安易な道はない、「鈍であれ 根であれ」と、粘り強く根気よく取り組むことを教えてくださいました。
この7月、病床にあられた先生は、ご家族がお念仏申される声の中、臨終の一念を迎えられ、仏となられ、迷いの心に生きる私たちを真実に導いてくださる方となられました。
いま収穫の秋を迎え、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という句を思いおこします。学問や技能が深まると、他人に対してますます謙虚になるという歌です。仏教を知的に探究するとともに自己を省みる指針とされて、「おかげさま」の心に生きられた生前の姿を思い合わせます。この私自身も、そのような念仏者でありたいと思うばかりです。
(本願寺新報 2025年10月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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