安らぐ場に帰る いつでもどこでも私に向かっている仏さま
加藤 真悟
布教使・大阪府四條綴市・自然寺住職
限りない光と寿(いのち)
親鸞聖人は「正信偈」のはじめに、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とお示しになります。
お釈迦さまは『仏説阿弥陀経』の中で、阿弥陀さまのお名前のいわれを、「光明限りなき、寿命限りなき仏さまである」と説かれます。
光明限りなき仏さまとは、空間を超えた仏さま、寿命限りなき仏さまとは、時間を超えた仏さまということです。
どこでも、いつでも、私に向かっていてくださる仏さまといただくことができます。
私たち自身は、常に時間と空間に縛られています。そして時代と世間の約束事に制約を受け、その中で生きているのです。これなくしては、誰も生きることができません。しかし、仏さまはそのような束縛や制約を受けない、そこを超えたお方ですから、いつも私の現実の中に、はたらき、現われてくださいます。
阿弥陀さまは、いつでも、どこでも、どんな者の上にも、休むことなくはたらいてくださる仏さまなのです。私の現実の生活の中に、私の依りどころとなってくださるのです。
親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」の六字について、ご自身の解釈を示され、「〈南無〉と〈帰命〉とは同じ意味です」といわれます。ですから、「正信偈」の最初の二句を一つにしていいますと、「阿弥陀如来さまに帰命いたします」となります。
こぼれる愚痴
帰命の「帰」は帰るという漢字ですが、ここでは「安らぐ場に帰る」と味わわせていただきたいと思います。
「帰る」というだけでも、何か自らの心に感じさせる響きはないでしょうか。
私であれば、慣れない都会の喧騒から逃れ、自身が住まいする緑の山あいにある町、家に帰る安らかさを経験するたびに、何の遠慮もいらない、気がねも必要のない人たちが、「いつでも、そのまま手ぶらで帰っておいで」と待ってくれるふるさとがあることに、帰宅をする前からホッとするものです。
人生という旅路は険しいものであり、時に大きな壁が立ちはだかり、思い通りにいかずに、涙することさえもあります。苦悩を背負わずしては生きられない無常の世、ことごとく順調にすべてが進むことなどありません。
「こんなはずではなかった」
こぼれる愚痴が、さらに心を苦しめます。
また、自分がつかんだと思うものは、砂のように指の間からこぼれていき、作り上げたという喜びも、海辺に築いた砂山のように、波によってあっという間に崩れていきます。手ぶらであることが許されない世にあって、この様相を思い浮かべるだけで胸が締めつけられます。
「そのまま来い」
人の世は「そらごとたわごと、まことあることなき世」です。本当にたのみとなり、よりかかるべきものは、一つも見いだすことはできません。
「生の依るところ」「死の帰するところ」は何なのか。人生を大切に生きようと思うならば、実に考えてみたいことです。
親鸞聖人は「帰命」の「帰」について、「ヨリタノムナリ」「ヨリカカルナリ」と示されました。
私たちは、よりたのむべきでないものによりたのみ、よりかかるべきでないものによりかかるがゆえに、常に裏切りを味わい、人生の悲哀を味わうのです。
「ヨリタノムナリ」「ヨリカカルナリ」とは、唯一つの安らぎを与えてくれるものへの、限りなき安堵感を表現されたお言葉ではないでしょうか。
厳しい人生の旅路を通して、いつ、どんなことがあっても、帰らせていただくことのできる場を持つ者こそ、その旅路は安らかであるはずです。
「南無阿弥陀仏」...「ヨリタノメヨ」「ヨリカカレヨ」と喚んでくださる阿弥陀さまの喚び声こそが、この私に安心を与えてくれるのです。
「ふるさとは、遠きにありて想うもの」
遠くにありながら、常に私に迫ってくるもの。心の飢えと底知れない不安のようなものを、相も変わらず人は抱え、日々疲弊しています。その私に、仏さまの喚び声は、「そのまま来い」と、今ここに届き、迫っています。
私の称えるお念仏こそ、その証しであると味わうのです。
(本願寺新報 2025年09月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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