いつでもどこでも 私を照らし続けてくださる阿弥陀さま
玉木 興慈
龍谷大学副学長・大阪市此花区浄興寺住職
バチが当たった?
私は大阪市此花区にあるお寺で住職を務めています。お寺で法座をつとめるときには、一人でも多くの方にお越しいただきたいと思い、ご案内をお届けしています。毎月の月参りでご門徒に直接お渡ししたり、郵便でお届けしたりしています。
ご法座では、いつもお参りされる方のお顔が見えないと、お身体の具合が悪かったのかなぁ... 急用ができてしまったのかなぁ... などと考えたりします。先日も、そんなことを思いながら、お休みされた方のお家へ月参りに寄せていただきました。
先月までは「正座もへっちゃらです」とおっしゃっていたのですが、その日は「椅子に座らせていただきます」と私にことわられるので、「やっぱり、調子が悪かったんやなぁ」と思いながら、一緒に阿弥陀経のおつとめをさせていただきました。
その後、お茶をいただきながら膝の具合を聞かせていただくと、「バチが当たったんですかねぇ」と、ばつが悪そうに切り出されました。お話しをうかがうと、先日の法座の日、大阪・関西万博に行かれたそうです。
「万博の開催地・此花区に住みながら、まだ1回も行ってなかったところ、遠くに住む孫が誘ってくれました。これを逃すと万博も終了してしまうし、でも、ご院さんには法座に行くと言ってしまったし。坊守さんにも、毎回の法座が楽しみで案内を待っていますと言ってたし...」と心の葛藤を話してくださいました。
そして悩んだあげく、万博を選ばれました。万博はとても楽しかったようですが、長時間歩き疲れて、足腰が痛くなったとのことでした。
普通に考えれば、長い時間歩いて、何時間も立って並んでいたのですから、痛みが出ても不思議ではありません。けれども、このご門徒は、ご法座を休んだことで、亡くなられたお連れ合いや阿弥陀さまに不義理をしたから、バチが当たったのではないかと心配されていたようです。
条件のない救い
あれほど仲の良かったお連れ合いが、悪さをされるハズはありません。また、ご両親はじめご先祖も、この世に残っている子孫を困らせることはありません。
なぜこう言えるのでしょうか。
亡くなられた方は、阿弥陀さまに救われてお浄土に往生させていただき、仏さまになられた方だからです。阿弥陀さまの本願力によって、往生浄土・成仏なさっているからです。
では、亡くなられた方は、なぜお浄土に往生し、成仏できたのでしょうか。亡くなられた方が、一生懸命にお念仏をとなえておられたからでしょうか。たえず、阿弥陀さまにご恩を感じながら過ごしておられたからでしょうか。阿弥陀さまに不義理をせずに、生涯を生き通されたからでしょうか。
失礼ながら、そうではありません。
阿弥陀さまは、いつでも、どこでもの仏さまです。私が、いつ、どこにいても、私のことを案じてくださっています。私が手を合わせて合掌している時はもちろん、私と共にいてくださる仏さまです。けれども、私が合掌礼拝しているから、共にいてくださるわけではありません。それでは私の合掌礼拝が、条件となってしまいますね。阿弥陀さまは、私の行いや心持ちを条件にして、その条件を満たす者のみを救うという仏さまではありません。もしそうであれば、ほんのわずかな条件すら満たすことができない私は、救いから漏れてしまうことになります。
私が合掌礼拝している時はもちろん、合掌礼拝していない時も、私のことを案じてくださっている仏さまが阿弥陀さまです。合掌礼拝をしていない時の私は、いわば不義理の私です。けれども、不義理の私を見放さず、なおいっそう、私を案じてくださる仏さまが阿弥陀さまです。
このことを親鸞聖人は『高僧和讃』の源信讃に示されています。
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(註釈版聖典595㌻)
正信偈にも同様のご文があります。阿弥陀さまの大悲(大きな慈悲)とは、いつでもどこでも、私と共にいてくださる仏さまの大きく広いお心です。阿弥陀さまの本願力によって成仏された故人も、私と共にいてくださる仏さまです。バチが当たるかと不安に思う必要はありませんね。
心配されたご門徒も、毎回のご法座にこれまで通りお越しいただき、阿弥陀さまの大悲を一緒にお聞きいただければ有り難いことです。
(本願寺新報 2025年10月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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