日々の暮らしから 仏さまを身近に感じることが念仏生活へと
川添 泰信
龍谷大学名誉教授・宮崎市西導寺衆徒
「お仏飯はうまい」
近来、米不足、米の価格高騰が問題となり、ニュースでは令和の米騒動とも言われています。それは、自分たちが、今日、明日食べる主食の心配でもあったでしょう。このような中で、仏壇にお供えするお仏飯のことを思って米不足を危惧した人はどれだけおられたでしょうか。
子どもの頃、お仏飯を本堂のご本尊さまにお供えするのは日々の習慣でした。それは寺院だけでなく、ご門徒のお仏壇でも日常の生活風景であったでしょう。しかし、都市化、核家族化していった現代に、そうした生活スタイルは伝わることは難しく、一般家庭ではそのような習慣はほとんど見ることのできない生活状況になっているのではないかと思われます。
わが家には、毎年のことではありますが、8月のお盆に娘親子が帰省してきます。わが家の生活習慣に合わせた孫たちは、仏さまにお仏飯をお供えするのが日常生活になります。もちろん、お供えする役割は孫です。
あるとき孫がお仏飯を仏さまにお供えし、「なまんだぶつ、なまんだぶつ」といってお参りをし、そしてお仏飯を下げてきました。その後、孫はお仏飯をそのまま食べ、「仏さまのご飯はうまい」と言ったことがあります。
それは少しばかりおどけた表情で言った言葉でした。お仏飯をお仏飯器から直接食べるのは、行儀が悪いということがわかる年齢でしたので、そのことをごまかそうとする子どもなりの知恵によって発せられた言葉であろうと思いますが、みんなで大笑いしました。
都会に住む孫たちの日常は、仏さまに接することも、また実感することもない生活です。帰省した孫にとって、お仏飯をお供えすることは、仏さまを実感する行いであったということができます。日々の生活の中で仏さまと無縁に過ごす孫にとって、1年の内、数回のお仏飯をお供えすることによって、仏さまを身近に感じることは、何ものにも代えがたい大切なできごとではないでしょうか。それはまた多くの現代人にとって共通することがらではないか、と思います。
お供えする気持ち
ずいぶん前のことになりますが、独り住まいの高齢女性から相談を受けたことがあります。それは「朝、仏さまのお供えはパンでもいいでしょうか」という質問でした。というのも、近年の日本では、朝食はパンをいただくという家庭が多いのではないでしょうか。この女性もまた、朝はご飯ではなくパンということでした。
相談を受けたとき、少し考えて、「夕飯はどうされているのですか」と聞きますと、「夕飯はご飯を炊いています」ということでした。そこで、「仏さまに毎日お供えをするお気持ちがとても大切だと思います。ご飯を炊かれた時に、お仏飯をお供えされたらどうでしょうか」と返事をしたことを覚えています。
しばらくしてその女性を訪ねたときに、「その後、どのようにされましたか」と尋ねますと、女性は「ひとり暮らし向けの小さな炊飯器を買って、朝、お仏飯用のご飯を炊いています」と言われました。おそらくは、永年朝にお仏飯をお供えするということが、当然のことであり、そのようにして人生を生きてこられたその女性にとって、やはり、ご飯を炊いた時ではなく、毎朝、ご飯をお供えしないと気持ちが落ち着かなかったのではないか、と思います。
いつしかみ教えに
日々、お仏飯をお供えすることは、意識する、しないは別にして、女性にとって仏さまを実感する証であったのではないでしょうか。それは、お仏飯をお供えする仏事のなかに仏さまを見ておられるということでしょう。
日ごろお仏壇と関わりをもたない孫が「仏さまのご飯はうまい」と言ったのは、実際はご飯のおいしさを表現した言葉でしょう。しかしそのような日常の生活を通して、私たちは、仏さまを身近に感じていくのではないでしょうか。
親鸞聖人は「大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふ」(註釈版聖典207㌻/『正信偈」)「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(同571㌻「浄土和讃」)とおっしゃっています。
日常生活の中で、仏さまを身近に感じていくことが、阿弥陀仏の慈悲の教えにつながっていく念仏生活の一歩ではないか、と思います。それがいつしか、親鸞聖人がおっしゃるような、「仏さまが常に私を照らしてくださっている」というような生活に変わっていくのではないでしょうか。
(本願寺新報 2025年11月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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