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新型コロナウイルスの感染拡大に伴うすべての人へのメッセージポスター

トピックス2020.07.03

 2020年4月7日に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大に伴う緊急事態宣言が出されて以来、私たちは当たり前のように暮らしてきた日常から切り離され、聞き慣れない言葉や情報が飛び交う中での不安な生活を送っています。

 まず、このたびの新型コロナウイルス感染症によりお亡くなりになられた国内外の多くの方々に謹んで哀悼(あいとう)の意を表しますとともに、罹患(りかん)されている皆さまに心よりお見舞い申し上げます。さらに、感染リスクにさらされながらも、懸命に治療・対策にあたられている医師、看護師をはじめとする医療従事者の方々、私たちのいのちと今の生活を支えてくれているすべての方々に深く敬意と感謝を表します。

 私たちといたしましては、今も困難な状況にある方に思いを寄せて、できることから始めていきたいと思います。その一環として、先の見えない新たな生活を送るすべての人へ向けてのメッセージポスターを制作いたしました。掲示・配布、SNSでの発信など、用途にあわせてお使いください。

 また、新型コロナウイルス感染症に注意しながら、法事・法要を行っていただけるよう、ガイドラインを作成いたしましたので、そちらも併せてお使いください。

【 門信徒のみなさまへ 】 法事・法要 勤修のための留意点(ガイドライン)(PDF)

【 僧侶のみなさまへ 】 法事・法要 勤修のための留意点(ガイドライン)(PDF)

ポスター

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新型コロナウイルスの感染拡大に伴うすべての人へのメッセージポスター(4)

(2020年7月3日公開)

ポスター4

『それでいいのだよ』
(『本願寺新報』2020年8月1日号に掲載)
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【メッセージ文について】

 新型コロナウイルス感染症は、いまなお世界中にひろがりつづけ、感染者・死亡者の数は増える一方です。昨日まで元気だった方が、突然、病に襲われ、最悪の場合には死に至るというきびしい状況のなか、多くの人々が不安をかかえながら生活しています。自分や他の人のいのちを守るために、医学的・科学的に最善を尽くして行動することが求められています。

 誰しも「健康で長生きしたい」「まだ死にたくない」という思いを抱きながら生活していますが、生まれてきたものは必ず死ぬということがこの世の真実です。その真実をありのままに受け入れることができず、生きることのみにとらわれ、死ぬことを遠ざけながら、日々を過ごしているのが、この私です。

 そのような私たちの姿を哀れみ、この世の真実に気づかせようと、あの手この手で呼びかけはたらき続けてくださるのが阿弥陀さまという仏さまです。自分中心の心でしか物事をとらえることのできないこの私を、「そのままの姿で救う」と救いのはたらきを振り向けてくださっているのです。

 我利我欲(がりがよく)の生活から逃れられない私たちは、すべて思い通りになることはないので、不平・不安を抱えたまま生きていくほかはありません。しかし阿弥陀さまの救いに出遇うとき、力強く生きていく道が開かれていきます。そうは言っても、生きている今も、そしてたぶん死ぬ時も、心がさだまらず不安がいっぱいであり続けるのが私たちです。それを「腹はすわっていない」と表わしています。しかし、そのような私たちに、「そのまま命を終えてもいいのですよ」と、やさしくよび続けてくださるのが、阿弥陀さまです。それを、「それでいいのだよ」と表わしています。つまり、「それでいいのだよ」は、「いい」とか「悪い」とかを、私たちが判断することではありません。私たちの側は、「そのまま救う」とのおよびかけを、「そのまま」受け入れるだけなのです。私たちにとっての生き死にの一大事については、この阿弥陀さまの救いのはたらきによるしかないのです。ただただ「ありがとう」のお念仏を申しつつ、気をつけて精いっぱい生きてゆきましょう。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴うすべての人へのメッセージポスター(3)

(2020年6月26日公開)

ポスター3表

『生きて 死ぬ いのちを 生きている』
(『本願寺新報』2020年7月1日号に掲載)
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【メッセージ文について】

 この言葉は蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文章(ごぶんしょう)』4帖目第9通(『浄土真宗聖典(註釈版第二版)』1181頁)をもとにしています。蓮如上人がその『御文章』をお書きになったのは、延徳4年(1492)6月のことです。それは、疫病(えきびょう)が流行して多くの人々が亡くなっていった年でした。

 『御文章』のなかで蓮如上人は、「このごろ疫病が流行し、多くの人々が亡くなっておられます。しかし、人は疫病のせいで死んでしまうのではないのですよ。死ぬということは生まれたときから定まっていることであって、それほど驚くことではないのですよ」(取意)といわれます。思わず「えぇ?!」と思うような内容です。

 いま現在、世界中で新型コロナウイルスに感染して多くの方が亡くなっておられることを思うと、たいへん厳しい言葉です。しかし、蓮如上人は、決して、亡くなった方やその家族の心情を無視されたわけではなく、また、医療の努力を無駄なことだとしてこのようなことをおっしゃったのではありません。蓮如上人自身、病気などで何人もご家族を亡くされた方ですので、その悲しみは深く知り抜いておられたはずです。それを踏まえると、この言葉には、「私が、いま、ここに生きているということの根底を見つめることが大事ですよ」という思いを受け止めることができます。

 人間に限らず、この世に生まれてきたものは、いつか必ず死にます。私たちはそれを当たり前のことと思っていますが、実際には、それを忘れて日々の生活を送っています。いつ、どこで、どのような形で死がおとずれるかも知らず、いざ、自分や家族に死が迫ってくると、その現実のありように恐れおののくのです。

 『御文章』では、先の言葉に続いて、「そのようなものをこそ必ず救う」とはたらき続けてくださる阿弥陀(あみだ)さまの救いが示されています。そして、阿弥陀さまの救いにおまかせして、お念仏を申す生き方をお勧めになっているのです。

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『父さん 母さん 来たよ』
(『本願寺新報』2020年7月1日号に掲載)
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【メッセージ文について】

 10年あまり前、大ヒットした『千の風になって』に、「わたしは、お墓の中にはいません」という歌詞がありました。浄土真宗の信仰に篤かった庄松(しょうま)さんのエピソードにも「わしゃ、墓の下にはおらんぞ」と言ったそうです(『庄松ありのまま記』)。

 一見ほとんど同じですが、内実はかなり異なります。風になったり星になったりという自然現象と、浄土(じょうど)に往生(おうじょう)するから墓にはいないというのとは、本質的に違います。

 ポスター写真は、亡き両親に思いをはせてお墓参りをしている場面ですが、真宗念仏者としてのお墓参りは、墓の下の遺骨に手を合わせているのではありません。愛しい両親への思慕を通して「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」のご本尊に合掌し、お念仏申しているのです。そして、称える念仏を通して、南無阿弥陀仏に出遇わせていただいているのです。だからこそ、阿弥陀さまは、「よく来てくれたね」と微笑(ほほえ)まれ、亡き両親も、お浄土に往生され、み仏となられていますから、私たちがお念仏申す身になることを、一番喜んでくださっているのです。

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『新しい生活は「和顔愛語」で』
(『本願寺新報』2020年7月1日号に掲載)
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【メッセージ文について】

 「和顔愛語(わげんあいご)」とは、穏やかな表情と優しい言葉。とても尊いあり方ですが、これを本当の意味で実行するのはなかなか難しいことです。機嫌が悪いと無愛想になり、イライラすると他者を傷つける言葉さえ吐きかねません。調子のいいおべんちゃらや二枚舌も、不実な心が顔を出しているだけです。

 しかし、その一方で、道ばたで困っている人を見かけた時、打算とかではなく、優しい言葉が掛けられることがあるのも事実です。それは、どこから来るのでしょう。私の不実な心からは、ありえません。打算はもちろんのこと、「してあげた」という思いがおこり、お礼がないと腹立ちに変わることも不実のありようです。そんな私たちに、阿弥陀さまのお慈悲が、はたらいてくださっているのです。阿弥陀さまの智慧の光に触れた者は、身も心も柔軟(にゅうなん)になります。阿弥陀さまのお慈悲に育てられ、私の不実な心の中に柔軟な心が芽生え、優しい言葉が発せられる身に育てられたのです。

 くりすあきら君という少年の詩に、
  ありがとうは、しあわせのあいさつです(くりすあきら『ありがとうのてがみ』)
とありました。「ありがとう」と言われたら幸せな気持ちになれますし、「ありがとう」が言えるのは、その人が幸せだからです。「和顔愛語」も、幸せの挨拶です。阿弥陀さまのお慈悲に出遇(であ)った幸せのおすそ分けを伝えてまいりましょう。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴うすべての人へのメッセージポスター(2)

(2020年5月26日公開)

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『おやさしい 南無阿弥陀仏に ありがとう』
(『本願寺新報』2020年6月1日号に掲載)
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【メッセージ文について】

 いつまで続くとも見通せない、この新しい感染症に、どう向かい合っていくべきかを考えたとき、足元をしっかり見据えておく必要があるでしょう。

 事は医学の領域ですから、まずは医師の科学的判断と指示を基本とすべきです。

 一方で、私たちの心の中は、必ずしも科学的・理性的な判断ができるわけではなく、「罹患(りかん)してしまうのではないだろうか」、「死んでしまうかも知れない」といった不安も、しばしば起こります。その不安は煩悩(ぼんのう)のしわざ。お釈迦さまのように悟れていませんから、煩悩のわが身は死ぬまで変わりません。

 そんな不安の中でも、「そのままのあなたを引き受ける」と立ち上がられた阿弥陀さまは、はたらきつづけておられます。

 ご門主さまはご消息の中で「縁起(えんぎ)や無常(むじょう)・無我(むが)というこの世のありのままの真実に基づく阿弥陀如来のお慈悲でありますから、いのちあるものすべてに平等にそそがれ、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の私たちも決して見捨てられることはありません」(取意)と述べておられます。このようにお慈悲の真実を、その心を聞かせていただくことにより、人生のさまざまな状況の中で、右往左往しながらも、目の前の現実にきちんと向き合う道が開かれてくるのです。

 おやさしい南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)に、「ありがとう」と感謝のお念仏が出てくることでしょう。

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「ともに響き合う世界」

「分かち合える世界」

(『本願寺新報』2020年6月1日号に掲載)

【メッセージ文について】

 仏教では、この世や私たちのありのままの真実を「諸行無常(しょぎょうむじょう)」や「縁起」といいます。「諸行無常」は、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっていること、「縁起」は、すべての物事は、一瞬一瞬に原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実のことです。

 ところが、ありのままの真実に気づかない私たちは、つい、得体の知れないものに不安を覚えます。ウイルスを敵視し、排除しようという想いを抱いてしまいます。実は、そうした想いこそが、自分本位にしか生きられない私たちの姿を示しているのではないでしょうか。

 阿弥陀さまは、そのような私たちに対して、哀れみ慈しみの心をもって、誰ひとり取り残されず尊い安心を与えようとはたらき続けています。阿弥陀さまのお心に出遇(であ)うとき、憎しみや争い、対立を超えた、心豊かな世界が恵まれます。

 私たちは自分一人で生きているのではなく、多くの人々の支えによって生かされています。仏さまの温かいお心にであうとき、仏さまが私たちの喜び悲しみをともにするように、私たちも他人と喜び悲しみを分かち合うことができる慈しみの世界が開かれていきます。

【本願寺大銀杏の写真について】

 本願寺御影堂(ごえいどう)・阿弥陀堂の前にそれぞれそびえ立つ大銀杏(おおいちょう)の今の姿を使用させていただきました。

 御影堂前の大銀杏は、「逆さ銀杏(さかさいちょう)」ともいわれます。1788(天明8)年1月京都大火の際に、水を吹き出して火を消し止めたと伝えられています。

 また、阿弥陀堂前の大銀杏は、2017(平成29)年の台風の被害を受けて枝葉が折れ、大きく損傷しました。それから数年、今では青々と生い茂り、本願寺の境内を明るくしてくれる存在です。

 どんな困難があろうとも、立ち上がり、そして未来へ希望をつなげていく。そうした姿を私たちに見せてくれています。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴うすべての人へのメッセージポスター(1)

(2020年4月23日公開)

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「いま 私にできること」
(『本願寺新報』2020年5月1日号に掲載)
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「新型コロナウイルス感染症に関する『念仏者』としての声明」ポスター

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「新型コロナウイルス感染症に関する『念仏者』としての声明」
(『本願寺新報』2020年5月1日号に掲載)
A3サイズ(日本語版)
A4サイズ(日本語版)
A3サイズ(英語版)
A4サイズ(英語版)