設計者の伊東忠太は、1898(明治31)年に、法隆寺の柱が緩やかに膨らんでいるのは、ギリシャ建物のエンタシス[※]に由来しているものでは
ないかという「法隆寺建築論」を発表した建築家として有名です。1902(明治35)年には、自らそれを実証するために、アジア横断旅行探訪に向かい、
一説では、その途上で当時自ら探検隊を率いていた本願寺第22代宗主鏡如上人と出遇われ、それを機縁として、本願寺ゆかりの建物の設計を任されたと伝わっています。
また、日本の建造物が、木造が主流だった1908(明治41)年には、「日本建築も建材に石材や鉄材を使用し、その建築様式は欧化でも和洋折衷でもなく、
木造の伝統を進化させることにより生み出さなければいけない」という「建築進化論」を提唱し、数年後に建築された社屋(伝道院)にそのすべてを体現したと
言われています。
そのため、その外観は総レンガ造り風のタイル張り、インドの建物風なドームや、イギリスの建物を思わせる塔が立ち、その構造はレンガ造りとして、
屋根は銅板葺き、屋根骨組みは木造、屋根飾りには、日本建築に多く見られる千鳥破風や軒組を石造りで設え、装飾にはわざわざ一見石に見えるようなテラコッタ
(装飾用の素焼き陶器)をあしらっています。また内部も、和風意匠の天井に、アール・ヌーヴォー[※]や、セセッションと呼ばれる水平線、垂直線を強調した
幾何学模様を多用するデザイン様式の照明器具を吊るなど、伊東忠太の「建築進化論」を明確に表現した作品であり、日本の近代建築の発展を知るうえでも
貴重な建物であります。
※ | 【エンタシス】 |
円柱の中央部に膨らみをつけて立体感を付ける技法をエンタシスという。緊張、張りなどを意味するギリシャ語に由来する建築用語。
ギリシャ建築の柱身に付されたわずかな膨らみ、胴張り。視覚的には柱身にエンタシスを付すことによって柱の硬直さを和らげる一方、
建築上部の重圧に対して緊張感を与える。 |
※ | 【アール・ヌーヴォー】 |
19世紀末から20世紀初頭にかけ、欧米各地で一斉に流行した装飾様式。多用されるしなやかな曲線と曲面に特色がある。 |
さて、前述の真宗信徒生命保険㈱は、蓮如上人450回遠忌法要を間近に控えた1895年(明治28年)に本願寺を大株主として設立され、初代社長には、
当時の有力財界人でもあり、小西酒造の当主であった小西新右衛門、またその監査役には伊藤忠商事・丸紅の大手総合商社を創業し多角的経営によって
伊藤忠財閥を築き、近江商人としても有名な伊藤忠兵衛が迎えられていました。
このような財界人が協力し設立され、内外の注目を浴びたこの社屋の竣工式には、鏡如上人、京都市長、各社社長など300名以上の来賓が参集し、
建物内での立食パーティや、落語や浪花節、桜狩り、動物園の見学など2日間の日程で行われました。また、その日程には一般市民への開放も行われ、
完成を盛大に祝ったという記録があります。
その後、真宗信徒生命保険㈱は、共保生命保険、野村生命などに改称し、1948(昭和23)年には東京生命に包括移転します。現在その歴史は、「T&Dフィナンシャル生命保険株式会社」に伝えられています。
所有者が変わった社屋は、その後、本館部分のみが残され、さまざまな使用者を経た後に本願寺布教研究所となり、昭和33年からは、あそか診療所
(大日本仏教慈善会財団1926<大正15>年設立)としても用いられ、さらに昭和48年から現名称の「本願寺伝道院」として活用されるようになりました。
昭和48年に開講した住職課程は、伝道院2階の南側の部屋を講堂として使用され、およそ2,000人の布教使を養成してきています。
住職課程では、およそ100日間の全寮制で開催され、寝食を共にし、時には夜を徹して論議を交わすなど、教学や布教の研鑽に努めます。
その大変な寮生活の中で、共に学ぶ全寮制の住職課程は、いつしかその研修そのものが「伝道院」という呼び名で親しまれるようになりました。
次号は修復までの経緯についてお伝えいたします。
(財務部)